キリスト教学校教育バックナンバー
第95回総会 第2日目朝礼拝奨励
「神の畑、神の建物」
野田 美由紀
キリスト教学校の教育に携わるということは、それぞれの学校に学ぶ児童生徒学生たちの成長に関わるという務めを神から託された者であるということです。そして、キリスト教学校においては、通常の学校教育に求められる知的・身体的・精神的発達、成長に寄与する教育に加え、魂の成長を図るということが大切な使命だと考えます。教師としての喜びは、つまるところ生徒たちの成長を見ることを許されていることに存すると言えるでしょう。そうした生徒たちの(特に霊的、信仰的な面での)成長、成熟を目の当たりにする時、今朝の聖書の御言を思わされます。
この御言の背景には、人間的派閥をつくって争うようなコリント教会の現状がありました。パウロはそのようなことは「肉の人、キリストとの関係では乳飲み子である人々」のすることだ、と批判します。成長させてくださるのは神であり、パウロもアポロもその他の指導者も、人々を信仰に導くために神に召されて働く者に過ぎないからです。それぞれの働きの違いは(学校ならばなおのこと)多くありますが、主の委託に応えて「神のために力を合わせて働く者」である点において、多様な働きを担いながらも全ての者は一つである、とパウロは言うのです。その自覚をもつなら、自らの働きを誇ることも、異なる働きをもつ同労者を羨んだり軽んじたりすることも必要ないし、自らの働きを空しく思うことからも解放されるでしょう。
パウロはまた、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とコリントの信徒たちに語ります。これは神の側から見た彼らの信仰的アイデンティティを示す言葉でしょうが、この言葉を我々の生徒たちに重ねて受け止めることが許されると思います。神ご自身が成長させてくださる方であり、生徒たちを神の畑、神の建物として選んでおられ、神によって成長し、建て上げられていくべき人として招いておられる、その神の選びと期待を実現に至らせるために、我々の学校が世に建てられ、我々が働き人として召されているのです。
無論、それは決して容易なことではありません。それぞれの学校の抱える困難な課題があり、またキリスト教学校のあり方を圧迫する現在の社会状況も否定できません。しかし、この時代の中でやはり神は「神の畑、神の建物」たるべき人を求め、またそのような人を育てるために働き人をお召しになるのです。我々が自らの無力を嘆くところでこそ、神は成長させてくださる神として御業を進められます。神が御業のために我々の学校を必要とされ、足らざる者をも働き人として必要とされ、そして神の畑、神の建物たるべき生徒たちを必要とされるのですから、我々はそのことに究極の希望を置いて歩んでいくことができるのではないでしょうか。
神が成長させてくださる神であり、我々の生徒をも神の畑、神の建物として見ていてくださるとすれば、我々もまたそのような神のまなざしを写し取って生徒たちを見ることができるし、見ることを求められるでしょう。神に愛され、期待され、尊いものとして見られている生徒たちに、そのことを教育のあらゆる局面において知らせることは、キリスト教学校に託された大切な務めだと思います。厳しく困難な時代にも、それぞれの学校がそのような使命を果たしていくことができるよう、共に祈り合いたいと思います。
〈フェリス女学院中学校・高等学校宗教主任・宗教主事〉
キリスト教学校教育 2007年7月号3面