キリスト教学校教育バックナンバー
聖書のことば
加藤 英徳
「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1・20)
私事だが、私はキリスト教とは縁遠いごく一般的な日本の家庭に生まれた。そんな私が教会に連なるきっかけは、偶然に与えられることとなった。夏休み中一回は教会の礼拝に出席するようにという課題が、聖書の授業の一環として与えられたことである。この課題にはおまけがあり、礼拝に出席すればする程聖書の点数が上がるという大変有り難いものだった。
私が出席したのは、民家の一階に聖日になるとパイプ椅子を丸く並べ礼拝を行う、そんな少人数の教会だった。民家の一階という場所もあって、集められた人々が家族のように思えてくるそんな教会だった。そこで大きな変化もないまま毎週聖日には礼拝に出席するようになり、出席しているのだから受洗もそのうちだろうという思いのなかで、一年後受洗した。
受洗当日の礼拝には、母校の教師も出席していた。後日、彼が学校の礼拝で、私の受洗に対して語った感想は今でも覚えている。
彼曰く「歩く先に小さな川があったから、それをピョンとまたいだような感じ」だった、そうである。
マルコによる福音書は、シモンやその兄弟等が主イエスから召命を受けて弟子になり即座に従った姿を私達に語りかけてくる。漁師にとっては網や舟は、生活の全てを支えている道具である。ましてヤコブやヨハネは、それだけでなく自分の家族をその場に残して主イエスに従ったというのだ。
彼らが自分の仕事とこれまでの生活を全て捨てて主イエスに従った歩みを始める、そこには彼らなりの大きな決断があったと私達は考えてしまう。だが彼らにしてみるならば、小川をピョンとまたぐのと同じように主イエスに召されたからごく当たり前に従った、ただそれだけのことだったのではないだろうか。
新たな生徒たちを迎え、新年度が始まり数ヶ月が過ぎようとしている。これまで聖書に全く触れたことのない生徒が多いことだろう。そんな彼らの中から主イエスの言葉に触れ、小川をピョンとまたぐように主イエスを信じる子どもがあらわれることを祈らずにはいられない。
〈聖光学院高等学校宗教主任〉
キリスト教学校教育 2007年6月号1面