キリスト教学校教育バックナンバー
パンとサーカス
後藤 博一
標題の「パンとサーカス」というのは、ローマ時代の政治家が民衆を治める要諦として、おいしい飲食物を摂る快楽と、楽しい見せ物を観る快楽を保障すればよいという意味でつかわれてきました。現代の日本ならさしずめ「グルメとビデオ」といったところでしょうか。「パンとサーカス」さえあれば、民衆は不平不満もなくおとなしくなると考えられていました。
若い人の意識は時代とともに移り変わってきます。昭和五年から若い人の人生観を調査しているデータによると、「金や名誉を考えずに、自分の趣味にあったくらし方をする」とか「その日その日をのんきにくよくよしないでくらす」という考え方が、戦前はそれぞれ一〇%以下であったが、戦後になるとこれらの項目を選択する数が増えてきています。両方合わせると八〇%を超えてしまうほどです。ここに「パンとサーカス」に満足している若い人々の考え方が表れているようです。学生時代にアルバイトをするのも、昔のように家計を助けるための苦学ではなく、現代的な「パンとサーカス」を求めての楽学(?)というべき現象でしょうか。
人々が額に汗して働いているのは、日々のパンを得るため、日常の生活はそのほとんどが「パンとサーカス」に費やされていると言っていいのではないでしょうか。資本主義社会では利潤の追求に価値をおき、人々はそのワク組みの中で、好むと好まざるとに関らず、単なる働きバチとなって、パンのみのために働き、パンのみによって生きているという状況になっています。文明の発達は、人々に豊かな生活をもたらしたと一般に思われていますが、それは現代的な「パンとサーカス」を提供しているにすぎないのではないでしょうか。心の生活は、一層貧しくなってきていると思われます。
聖書には「人はパンだけで生きるものではない」とあります。この言葉は、逆に読むと、「人はパンのみによって生きることによって、死んでいる」(D・ゼレ『内面への旅』)と理解されます。「パンとサ-カス」に満足して、ただ何となく生きのびるということにすぎない生は、実のところ死であると聖書は語っています。人間として生まれてきて、最も大切な、そして最も根本的な人生そのものをどう生きるのか、「パンとサーカス」で満足してただ何となく生きるのか、それとも聖書が語っている真実に目覚めた生き方を求めるのか、若い時にしっかり考えてもらいたいものです。
昨年の世相を表す漢字として「命」が選ばれました。「命」の価値が軽んじられているということですが、もう一つ世相を表す漢字を選ぶとすれば、「金」を挙げなければなりません。昨年は拝金主義が横行していた年であった思います。人生の勝ち負けがお金を基準にして論じられていました。お金があれば何でも手に入る。小さな子どもまでお金儲けをしたいと言う。現代はまさに「パンとサーカス」で人生を覆う状況です。キリスト教学校は、このような世相の中で、毅然と、この世の人には隠された別の価値を若い人たちに指し示していく必要があると思います。
〈神戸松蔭女子学院大学学長〉
キリスト教学校教育 2007年3月号1面