キリスト教学校教育バックナンバー
中高代表者協議会まとめ
我々は過去にキリスト教学校の教訓に学べるか
平塚 敬一
二〇〇六年十一月十日、青山学院大学総研ビルを会場に中高代表者協議会を開催した。全国各地から五十名ほどの出席者があった。宮城学院院長深谷松男先生による「教育基本法とキリスト教学校―その改正法案を巡って―」と題して講演を伺ったが、講演者の熱弁の余り出席者の意見を交わす時間をとれなかったことを司会者として深く反省している。出席者はどのような見解を持ち、また疑問を持っていたのだろうか。今、キリスト教学校は一つのエポックを画するような転機にある。特に「教育基本法」の改定をめぐる論議はキリスト教学校の将来に大きな影響を与える。あの訓令十二号時、太平洋戦時下のどさくさ時よりも静かに浸透し深刻であり、危機的であると言えよう。この時にキリスト教学校の責任を担う者は、何を目指しどこに立つのかその姿勢を問われよう。
深谷先生は、まず「キリスト教学校も日本の学校制度によっているので、教育基本法、その他の教育法制を正しく再認識する必要あり」と喚起された。教育基本法前文は、「憲法の新しい国家像の国民的合意についての認識があり、民主的で文化的な国家、世界の平和と人類の福祉に貢献する国家、そして、主権者である国民が教育の基本を確立すると宣言している。さらに前文は、憲法の実現は根本において教育の力に待つとある。しかし、教育基本法の最も重要なこの部分が改正案には欠けている」と述べ、教育基本法第一条は、「まず個人としての人格の完成が根本にあり、そこで育成された人間が、平和的な国家及び社会のよい形成者になるという認識が根底にある。国家・社会の形成者の育成は、教育が国家の批判を許さない不動の体系として教え込むのではないことが教育基本法の大前提であると明示している。そして、教育基本法前文には『憲法の精神に則り』と憲法を成り立たせている基本的精神が宣言されているが、改正法案(第二条)には憲法と無関係な徳目ないし教育目的を二十個も加えている。もっとも基本法改正の最終目標は憲法の抜本的改正にあるので、その時に『憲法の精神に則り』が生きて来るという構想であろう」と憲法と教育基本法の密接な関係を指摘された。続いて「キリスト教学校が国の法制に対しても、教育基本法に対してもそれが正しいと考えられるならばその教育を可能にできるのはキリスト教学校こそだ」と言われる。その上、「国家や法は個人の尊厳を踏まえた基本的価値観を提供できないし、思想・良心の自由ゆえに法規制をしてはならないため真に個人の尊厳に立つ時代を超えた教育をすることは『教育基本法を超えて』である」と深谷先生は講演をしめくくられた。
朝日新聞の世論調査(二〇〇六年十一月十一、十二日実施)によると教育基本法改定賛成四十二%であるそうだ。国民のこの一方向に流れる渦の中で、かつてのキリスト教学校の歴史の汚点と重ならざるを得ない。現行の教育基本法が古くなったから改定するということだが、教育の目的、教育の方針、教育の機会均等などは教育の理念であって、一世紀経っても色褪せるものではない。むしろ、現行の教育基本法の精神に基づく教育政策は短期間しか実施されず、いつの間にか骨抜きにされてきたことこそ考えるべきではないだろうか。注目すべき問題点は現行法前文にある「真理と平和を希求する人間の育成」が、「真理と正義を希求し、公共の精神を尊び」と変えられていることである。キリスト教学校教育の主軸ともいえる平和を希求する人間の教育は消えてしまう。改定案の「世界の平和」「平和で民主的な国家」「国際社会の平和と発展」という平和の文字は、「社会」「国家」「世界」の単なる飾り言葉として使用されているにすぎない。これで平和の文言は憲法第九条だけになってしまう。教育基本法の改定は、我が国の不戦の誓いを壊すことになる。現在、世の中の流れ、数の力で教育基本法が改定されようとしている以上深谷先生の力説される「国の法制に対してもその自由と主体性を保持し続けることが肝要である」ことをキリスト教学校の責任を担う者はしっかり自覚し、再び過ちを繰り返すような愚か者であってはならない。「もし日本の国としての民主主義が崩れることがあっても、小さな、数十人の集団の中だけでも民主主義を守り続けたい。最後まで妥協せず、民主主義を維持する。そういうしぐさの人間として生きる。」と鶴見俊輔氏が朝日新聞の対談(十一月二十八日)で語っているが、キリスト教学校に勤務する者は、この言葉を肝に銘じたい。それにしてもあの時のように各学校が単独で抵抗するすべしかないのであろうか。
(二〇〇六年十二月一日記す)
〈教研中高部会委員長、立教女学院中学校・高等学校校長〉
キリスト教学校教育 2007年1月号8面