キリスト教学校教育バックナンバー
開会礼拝説教
園丁の決意
ルカ13:6-9
小倉 義明
一.実をつけぬ果樹
テキストは、実をつけぬ果樹の運命をめぐる話である。実をつけぬ果樹は、なお果樹と呼ばれ得るだろうか。
ぶどう園の園主は、そんな樹は切り倒せと言う。その樹がぶどうでなく、いちじくの木であったにせよ、である。神は、現代の実績主義、自己責任の精神に通ずるような仕方で、不実な(実をつけぬ)存在を処分し給う。
日本国憲法と教育基本法が制定されて以来六十年。この間、日本の教会とキリスト教学校は、どれだけの実りをつけたであろうか。
二.とりなし
実りらしい実りもつけられぬ日本の教会とキリスト教学校が、それでもなお存立し得ているのは、何故か。私たちの背後で主イエスが「もう一年お待ちください。そのまわりを掘って肥料をやってみますから」と神に向かって懇願しておられるからではないだろうか。学生・生徒が自分ひとりの力で立っているつもりになっているが、実は彼の知らない所で親が、あるいは教師が彼のためにとりなしをしている事例を、私たちは多く知っている。すべて人間的存在の存するところ、その背後にはとりなしがある。
三.悔改め
テキストは、前段(13章1~5節)の教えの敷衍として語られた譬である。前段の教えとは「災いを他人事と思ってはならない。悔改めなければ、あなたがたも滅びる」という主の警告である。従って「悔改めよ」というメッセージがテキストの「とりなす者」への示唆と結びついている、と理解される。
テキストは園丁のとりなしで終わっていて、そのあといちじくの木がどうなったかについては語っていない。
もしもいちじくが実をつけたとしたなら、それは三年間に及ぶふてくされから心を入れかえたからであるに違いない。即ち、いちじくに悔改めがひきおこされたのである。彼の悔改めは、明らかに園丁のとりなしを知ったからであろう。
四.結び
― 園丁の決意
テキストにおいて、園丁は園主の審きを聞いて必死の懇願をする。彼は樹の運命と一体となっている。樹の不実は、自分の責任であると受けとめている。「とりなし」とは、すべてその切ない思いを秘めている。
園丁のとりなしは、彼の決意でもある。即ち、地を掘り肥料をやるという勤労となる。この園丁とは、主イエス・キリストだ。しかし、同時に、主によって召し出された私たちでもあるだろう。園丁は、神の園を守る光栄ある務めだ。私たちは、学校の運命と一体だ。学校が実をつけるかどうかは、私たちの責任。そうであるなら、悔改めねばならない。そして、新しい決意をもって、工夫と勤労にいそしもう。主は働かれる。私たちも働くのである。
〈聖学院キリスト教センター所長、女子聖学院中学校・高等学校校長〉
キリスト教学校教育 2007年1月号6面