キリスト教学校教育バックナンバー
講演Ⅱボストンから見た京都ステーション
本井 康博
同志社の創立者、新島襄は、実は牧師、それも日本人初の「宣教師」です。ここから初期同志社に特有の矛盾が派生いたします。
新島は幕末の江戸で生まれ、七五三太(しめた)と命名されました。育ちも神田の安中藩邸ですから、「上州系江戸っ子」です。二十一歳のときに、欧米文明や英語、自由、キリスト教などに憧れて、国禁を犯して函館から密出国いたしました。上海で、運よく乗り換えたアメリカ行きの船の船長から、「ジョウ」と呼ばれました。船のオーナーが、ボストンの富豪、A・ハーディーだったことが、以後の新島(したがって同志社)の骨格を決定します。
一年後、ようやくボストンに着いた新島は、留学志望を船主に率直に伝えました。船長の推薦も功を奏して、新島はハーディー夫妻から家族(養子)同然に受け入れられます。新島は養父から「ジョゼフ」と呼ばれましたので、留学中は英語で「ジョゼフ・ニイシマ」と名乗ります。
ハーディーは、会衆派教会の篤実な信徒で、ボストン周辺にある三つの学校(会衆派)の理事でもありました。だから、新島は会衆派教会で洗礼を受け、三つの学校(高校、大学、神学校)で次々と学びます。その結果、牧師資格を取得したばかりか、アメリカン・ボードの準宣教師にも任命されます。この団体は、ボストンに本拠を構える会衆派系ミッションで、当時の理事長は新島の養父でした。要するにアメリカでの新島は、「ボストニアン」同然でした。十年振りの帰国にあたって、新島はハーディーからミドルネームを貰い受け、「ジョゼフ・ハーディー・ニイシマ」(JHN)と改称します。
こうして新島は、宣教師としてボストンから日本に派遣されただけでなく、理事長の「息子」として、横浜に戻ります。以後の生活費もボストン(ハーディー家)負担です。
日本に戻った新島は、かつての「ジョウ」(ジョゼフの愛称)を「襄(じょう)」と転換させ、「新島襄」になりました。ボストニアン(JHN)の生き方を日本でも貫徹したい、軸足はボストンに、との願いの表れです。
このボストニアンが、先輩宣教師と「京都」に創設したキリスト教学校が、同志社です。だから、ボストンから見れば、会衆派系の「ミッション・スクール」にとどまらず、ミッション組織の一部(支部)、すなわち「京都ステーション」(ミッション支部)そのものです。
ただ、山本覚馬という人物の協力により、学校が京都にできたことは、ミッションにとっては厄介な問題を孕みます。同志社と京都はミスマッチですから。なぜなら、京都は、外国人に居住・旅行・財産所有などで大きな制約を課す「内陸部」です。だから、ミッションは日本人校長(JHN)を前面に立てざるをえません。ですが、実質的にはアメリカ人宣教師(J・D・デイヴィス)が、影の校長です。つまり、「両頭政治」なのです。
この結果、日本の官庁からは、「外国の学校」だから廃校せよ、そしてミッションの一部からは、「日本人(新島)の学校」だから宣教師が無視される、といった非難や苦情が新島校長に浴びせかけられました。まさに板ばさみです。
これは、ひとつには、新島襄(日本人)とJHN(ボストニアン)という両顔を持つ人格が、校長(創立者)であること、ひとつには、「開港地」(神戸)や「居留地」(大阪)ではなく、「内陸部」のために、「日米協力」型の学校たらざるをえない、という「京都ステーション」の特異性が要因です。
〈同志社大学神学部教授〉
キリスト教学校教育 2006年12月号2面