キリスト教学校教育バックナンバー
聖書のことば
伊藤 文枝
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」(ルカ23・34)
この聖句は、イエスの十字架上における祈りです。最近、人の生命が簡単に奪われる悲惨な事故や事件の報道が続いています。その原因の殆どは、私たち「人間」にあることを思うと、冒頭のイエスの祈りが心に響いてきます。使徒言行録7章60節には、エルサレムの原始教会最初の殉教者ステファノの祈りが記されています。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」
イエスの祈りとこのステファノの祈りは大変似ているように思います。ステファノは「…この罪を~」と言っています。「罪」という語源は「的外れ」という意味ですが、まったくその通り、私たちは的を射ていない生き方をしているのではないでしょうか。
過去においても現在も、そしてこのままの生き方を続けるなら未来においても…イエスの祈りの「自分が何をしているのか知らないのです」は、私たちが「何をしたのか」「何をしているのか」「何をしようとしているのか」を解らないような生き方を指しています。これこそ的外れな生き方、罪以外の何ものでもありません。二千年前のイエスの祈りは今この時代も続いています。私たちはこの祈りに心を留めて、自らの生き方を問い直す必要があるのではないでしょうか。
私は中学生三学年の「聖書」の授業を担当していますが、生徒たちは種々の問題を抱え悩み「癒されたい」という言葉や願望をよく口にします。イエスの十字架上の祈り、赦しの福音にこそ真実の癒しがあることを聖書を通して知って欲しいと心から願っています。
〈普連土学園中学校・高等学校聖書科講師〉
キリスト教学校教育 2006年11月号1面