キリスト教学校教育バックナンバー
第47回中高研究集会
発題要旨
授業において関係性を学ぶ
杉村 みどり
他者との関係性を描いた定番教材として、太宰治『富嶽百景』、中島敦『山月記』、夏目漱石『こころ』が挙げられます。『富嶽百景』は、富士山という異質な他者を、周囲の状況や人との係わりの中でさまざまに解釈する中で自分自身が変えられて行く姿が、『山月記』は、芸術にとらわれた人間が虎になってしまった根拠を、己の自信過剰と自信欠如に求める姿が、『こころ』は、他者の介入ゆえに心にもなく友を裏切る姿が、それぞれ描かれます。生徒たちがこれらの作品に感銘を受けるのは、まさに自分の問題であるからです。たとえば『山月記』では、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」・「珠(詩才のある人)と瓦(凡人)」を行き来する自意識過剰な虎を、人間とは哀しい存在だといいながらも生徒たちはこよなく愛します。「…彼の作品に私たちが惹かれるのは、観念の遊戯がまさに青春そのものだからである。まるでメビウスの輪のように出口のない自分の心の中をさ迷い歩き続ける彼に、私たちは、自分を重ね、共感するのである。異常な博識・臆病な自尊心…。私たちは彼の作品を読み、自分の弱点を見せ付けられてゾッとすると同時に、それに惹きつけられていく。彼の作品に出口はない。彼自身見つけていなかったからである。しかし私たちは、何度も何度も読み、考え、出口を探し続けるのである。離れることは出来ない。」これは一昔前の、「観念の遊戯」を楽しむ術を知る厚い層に支えられた生徒の感想の一部です。
一方「…多少の自尊心は大切なものであるが、行き過ぎは考えものである。天才肌ともいえるが、彼の頑なさは反面教師とすべきだろう。」実はこれは、近年の生徒の寸評です。抽象化が下手になったとは、多くの教科の教師の実感です。整った正解に走らず、答えの出ぬ問いに対して言葉で思考し、獲得した思考能力で以って人間性を築き続けるという哲学ともいえる姿勢、哲学の香を愛する心かもしれませんが、それは一生を左右します。大学の専門課程でも、社会でも、家庭生活でも奉仕活動でも、あの先生が言っていたあれだなと断片的に気付き、生き方として蘇る、そのような読みの豊かな過程を、我々の教材の扱い方の変質によって、いつの間にか失ったのかもしれません。
さて、『こころ』で、主人公の「先生」は「K」を出し抜いた直後、「もし、Kと私がたった二人曠野の真ん中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従ってその場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐにそこで食い止められてしまったのです」と、遺書に告白します。若き日、教育同盟の研究集会で、教科を通して神の栄光を表すというご指摘をいただいて、そんなことが出来るのかしらと驚愕いたしましたが、M・ブーバーのいう「我と汝」・神と人との縦軸の関係を視点に置いて「曠野の真ん中」と「奥に人が居る」ことの違い・人間同士の横軸の関係をここで考えるか否かは、キリスト教学校における各授業のあり方への問題提起ではないでしょうか。
〈女子学院中学校・高等学校教諭〉
キリスト教学校教育 2006年5月号2~3面