キリスト教学校教育バックナンバー
開会礼拝説教
他者を愛する
松田 和憲
マタイ22:34-40 7:12
これら二つのテキストの関連性は深く、双方とも旧約聖書の要約であり、イスラエルの基本的倫理とされている。「最も重要な掟」(22章)において、律法学者の「人間が生きる上で最も重要な掟は何か」との問いに対して、イエスは「全身全霊をもって神を信じ、神を愛する」(申命6・5)こと、また「隣人を自分のように愛する」(レビ19・18)こと、これら二つの律法を示したのである。第二の掟「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」、ここに「他者、隣人を愛せよ」の前に「自分を愛するように」との言葉をおいている。これは利己的で放縦な自己愛の勧めではない。もしそうであれば、自分のために他者を手段化、目的化することになってしまう。
ここで、イエスが言う「自分を愛するように」ということは、自分を掛け替えのない存在として大切に思うように、あなたの隣人を愛せよという意味である。すなわち、まず自らの存在を受け入れる「自己受容」の大切さを語っている。自分を愛することのできない人は他者を愛することもできない。キリストにおいては「自己を愛すること」と「他者を愛すること」、さらに「神を知ること」と「自分を知ること」とは表裏の関係にある(カルヴァン)。すなわち神の前での「自己を知る」、そこから本来の自分の姿、他者を愛することの意味が見えてくるのである。
もう一つのテキスト「黄金律」(マタイ7・12)において、他者を愛することの意味が語られている。類似した教えは、古くはギリシャ哲学、旧約外典、論語などに見出せる。日本の親たちが「自分が人からされたら嫌なことは人にもするな」としつけをする。これも儒教の影響を受けた「教え」で、他の「教え」と類似している。これらの「教え」の殆どが、受動的であることに気付く。それは日本人の文化形態、すなわち相手の出方を見てから行動に出るといった立場からすれば、受身の姿勢の方が受け入れやすいのかもしれない。そのため、イエスの「黄金律」の能動的側面は、時として誤解を受ける。すなわち「親切にしていれば見返りがくる」とか「情けは人の為ならず」と言った人生訓として受け止められやすい。イエスはこの「教え」において、相手の立場も省みず、自分本位の愛の押し売り、お節介を焼くことを奨励しているのだろうか。そんな筈はない。
大学夜間の授業において、「黄金律」を学んでいる際、わたしは数十名の学生にこう問いかけた、「君たちにとって人から一番して欲しいと願っていることは何か」と。しばし沈黙のあと、男子学生が、照れくさそうに「人間として、自分の存在を認めて欲しい、受け入れて欲しいということではないか」と語ってくれた。わたしも間髪を入れずに「そうだよな。イエスのこの教えは、あなたも人に愛されたい、理解して欲しいと願っているならば、まずあなたの方から進んで、あの人この人を受け入れ、愛せよと語っているように思う」と繋いだ。
「黄金律」において重要な点は、行動に移す前に、相手が何を望み、今どんな状況にあるかについて思い遣ること、さらには今相手が何を必要としているか、何を必要としていないか、それを見抜く洞察力と感性を磨くことではないか。
以上、二つのテキストは深い所で一つとなる、極めて重要な「教え」であるが、実際の教育の現場において指し示すことはたやすいことではない。しかしキリスト教教育に携わるすべての人々にとって、これはイエスの示された愛の実践に向けての高次の「教え」であり、語りつつ行うことを求める勧めであることには変わりはなく、不断の努力へと促し続けるものである。
〈関東学院大学教授、関東学院大学宗教主任〉
キリスト教学校教育 2006年1月号3面