キリスト教学校教育バックナンバー
聖書のことば
美濃部 信
「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる」(詩編139・1~2)
私が担当している聖書科の授業中、ある生徒が唐突に私に対して「先生は神様を信じているのですか」と質問してきました。私は動揺を隠しながら「…信じているか、信じていないかという二分法でいうと、信じていないということになるかもしれない。信仰は九〇%の疑いと一〇%の希望(ベルナノス)という言葉もあるように、信仰には疑いがついてまわるのだ」と答えました。とっさのことでうまく説明できずに、後味の悪さが残ったのを覚えています。「私は一辺の曇りもなく神様を信じています」と胸を張って言えたならなんとすばらしく、心が晴れるだろうかと私はいつも思います。
イエス様の弟子の中にトマスという人物が出てきます。私がこの人物に興味をもつ理由は、彼はイエス様の復活を徹底的に疑うからです。イエス様が復活されたという報告に対して、トマスは「自分の指や手をイエス様の手の釘後や刺された脇腹に入れてみなければ、イエス様が復活したことなど絶対信じないぞ」と疑ってかかります。イエス様から信じることを勧められているにも関わらず、不信を抱いてしまう人間の現実が現れているような気がします。「私は神を信じます」という時の主体が人間である限り、疑いのない神様への信仰はないと言えるのかもしれません。疑いと信じることとの間を私たちはいつも揺れていなければならない様な気がします。
「主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる」(詩編139・4b~5)
このみ言葉は表題のみ言葉の少し後に続くものです。表題のみ言葉と合わせて考えると、キリスト教の神様は私たちのすべての行動を分かっていてくださり、前からも後ろからも囲んでくださっているということが分かります。疑いの晴れない人間のすべてを含めて神様が抱えてくださっているのだから、安心して疑いを抱きつつ、神様に日々向かいなさいと語りかけているように私には思えます。
〈福岡女学院中学校・高等学校宗教主事〉
キリスト教学校教育 2005年11月号1面