キリスト教学校教育バックナンバー
パネルディスカッション発題
立教大学におけるキリスト教教育
香山 洋人
キリスト教は知識、原則、体系としてではなく「生き方」LIFEとして示され、「生き方」LIFEとして結実しなければならない。LIFEとしてのキリスト教の学びは現場における体験、人格的関係の次元と無縁ではありえない。正課におけるキリスト教教育が、神と人間との歴史的経験をもとに学生たちに問いを投げかけ知識を提供すると同時に、キリスト教教育の視点から提示される参与可能な現場が必要である。現場こそがキリスト教の「生の座」であり、教育的視点からは現場における多様な出会いから自己省察へ、さらには個別の体験を社会的な物語へと合流させるスーパーヴァイズが必要となる。これがプログラムとして提供される「課外教育」の基本姿勢となる。
立教におけるキリスト教教育は、キリスト教学科など体系的にキリスト教に関する学びを提供する場合を除いて、全体としてはキリスト教の知識を伝達することを目標としていないし、キリスト者を養成すること(伝道)を一義的な目標としてはいない。かつて聖公会と直結していた立教は聖職養成を目標としていた(立教=教師を立てる)。しかし教会がバックグラウンドへと後退した現在、教会との関係で言えば立教はキリスト教を認知する者、キリスト教のよき理解者、さらには協働者をはぐくむ働きを担っていると理解される必要がある。これらは学校教育で完結するのではないより広く継続的な過程、教会の文脈につながることを念頭に置いた教育課程の一部として機能する。「キリスト教学校」は教会のわざの中にあってはじめて正しい働きが与えられるはずだ。
立教の基本理念は「リベラルアーツ」であり、その本質は「建学の精神としてのキリスト教」だ。しかし、二〇〇六年度にはキリスト教関連科目は極端に減少する(二〇〇五年度比三〇%減)。たしかにキリスト教を明示しないが内容的にキリスト教のメッセージである授業もあるが、キリスト教教育を行う大学において、キリスト教を学ぶための科目展開が少ないということは致命的であり、キリスト者教員が少ない現状ではこれ以上「内容的にキリスト教」であることの期待も困難であり、「明示すること」が重要な課題となる。チャプレンによる授業「信じること、生きること」ではこれまで多彩なゲストを招いて展開してきたが本年度は四人のチャプレンがそれぞれの専門性を中心に講義を展開した。
立教学院のチャプレンは日本聖公会主教会が派遣する。現在大学チャプレンは専任教員待遇四名(東京教区二名、ソウル教区一名、ハワイ教区一名)、聖歌隊長一名(オーガニスト兼務、文学部教授)、オーガニスト二名(非常勤)、チャプレン長一名(非常勤)。チャプレン室職員は専任四名、嘱託一名。池袋、新座両キャンパスを担当する。立教大学のチャプレンは教員ではなく牧会者として、キリスト教行事、キリスト教科目に限定されない「キャンパスミニストリー」を行っている。大学での礼拝は自由参加のため出席者は少ないが、学生団体、体育会などの諸行事をチャペルでの礼拝に関連付けて行うことで、学生たちを礼拝体験へと導いている。
立教において建学の精神を実践する上で必要とされる条件は色々あるが、以下の事柄は重要な要素といえる。キャンパスミニストリーに召命を持つ働き手(チャプレン、教員、職員)、チャプレンやチャペル団体の活動に対する特別な支援、理事や学校長のクリスチャンコード、カリキュラム運営にチャプレン(あるいはキリスト教教育の責任者)が参画すること、そしてチャプレンの側に必要なのがキリスト教のメッセージを世俗的言語で表現する能力だ。
われわれはキリストの名によらないキリスト教運動、チャペルの枠によらないキリスト教運動Non Church Christian Movementを実践する能力が問われている。また大学の側については建学の精神、キリスト教(聖公会)であることを大学の特徴として戦略化する能力が問われている。
〈立教大学チャップレン〉
キリスト教学校教育 2005年10月号2面