キリスト教学校教育バックナンバー
人格教育
寺園 喜基
年配の卒業生からこんなことを聞いた。学生時代にある教授のゼミに入れてもらおうとお願いに行ったら、先生が、君は専門教育が希望かね、それとも人格教育で行くかね、と訊いたという。自分は成績が良くなかったので、人格教育でお願いします、と答えたとのこと。ごましお頭の社長は首に手をやりながらそう話した。わたしも苦笑せざるをえなかった。しかし、そういう意味で人格教育という言葉が使われていたのかと思うと、腹立たしく悲しかった。
だいたい人格教育と専門教育とは対立するのだろうか。両者を二元論的に理解していいのだろうか。人格教育とは、この子たちは成績が悪いので、教科を教えるのはほどほどにして、しつけでもしっかりしよう、という程度のことなのだろうか。そうではないだろう。むしろ専門教育、職業教育、受験教育等いかなる教育であれ、それらを刺し貫いている心棒のようなものだと思う。
人格教育は判断力の教育とも言える。どんなに鋭い思考能力や広遠な思考のファンタジーをもっていても、人はそれだけでさまざまな世界や人生の問題を的確に判断することはできない。死ではなく命を、争いではなく平和を、悪ではなく善を選択する知恵は判断力からくる。ハンナ・アーレントは、思考能力とは区別された意味で、判断力が備わっていなくてはならないと言い、「同じ人物が思考能力では巨人的に発達しているのに、判断力では小人のような形態を示すとすれば、むろん、それは病的である」と述べている(テート著『ヒトラー政権の共犯者、犠牲者、反対者』創文社)。テートはそのような実例として、ヒトラー政権に協力したハイデッガー、ゴーガルテン、ヒルシュ等の高名な哲学者や神学者を挙げる。彼らはその思考力や博識にもかかわらず、ナチスの熱狂主義に対して的確な判断力をもちえなかったのだった。
西南学院の歴史にこういうことがあった。戦前の学校に軍事教練が導入されていた頃のこと。軍司令部から年に一度将校が来て、日頃の軍事教練の成果を検査、閲覧するという査閲式というのがあった。ある年の査閲後の終礼のとき、査閲官が学院最年少の一中学生に、「お前らは、このキリスト教の学校で教育を受けているが、現人神であらせられる天皇陛下とキリスト教の神と、いったいどちらが上と思うか」と問いかけた。これに対して、日ごろ先生たちからよく叱られていたこの腕白坊主は、体を硬直させながら、「陛下は、日本の国の至上の王さまであります。キリスト教の神は、霊の世界の王さまであります。比較できません」と答えたという。査閲官はそれ以上は追求しなかったとのことである。
この中学生の答えは神学的には検討の余地もあろう。しかし何かある毅然としたものを感じないだろうか。世俗主義の甘い生活と共にファシズムへの逆行が感じられる昨今、人格教育の見直しが求められているように思われる。
〈西南学院院長、同盟理事〉
キリスト教学校教育 2005年10月号1面