キリスト教学校教育バックナンバー
第49回事務職員夏期学校
聖日礼拝説教
祈る人が見える ルカ11・1~13
塩谷 直也
キリスト教学校の特徴は「そこに血のにおいがする」と、昨日の夕拝で申しましたが、もう一つキリスト教学校に来る時にいちばん違うなと思ったことは、そこに「祈る人」がいるということです。
まずキリスト教学校教育同盟の「どうめい」を頭文字に祈りの特徴についてお話ししたいと思います。
祈るのは誰でもできることなので、わざわざ教えを請うたりポイントを聞く必要がないと思うかもしれませんが、祈りにはコツがあるのです。
ど 「どこまでも」
キリスト教の祈りには終わりがありません。本日の聖書個所にも「どんな形でも求めなさい、戸をたたきなさい」とありました。何よりも叶うまでどこまでも祈る、これが聖書の語る祈りの出発点です。
う 「どんなこともうそ偽りなく」
神様にはどんなことをぶつけてもいいのです。神様は聞いてくれます。聞いてくれるとはっきりわかる人にうそ偽りなく話せる安心感ほどコミュニケーションで大切なものはありません。祈りは答えが来るか来ないかよりも、まずは言っていることをちゃんと聞いてもらうこと、それがスタートです。
め 「目指すはキリスト」
神学校の先生に「教育って人間には出来ませんね」と言われたことがあります。最初はそれを聞いて驚きましたが、だんだんと先生のおっしゃりたいことがわかってきました。私たちは誰しもここまで行こうというゴールを設定します。そのゴールの設定が自分の能力内の設定であるなら祈る必要がなく、自分を叱咤激励すればいいのです。
自分の能力をはるか超えるところにゴールを設定していて、どんなにがんばってもたどりつけないことがわかる人はこの隙間をどう埋めるのでしょうか。それは祈るのです。祈りというのは全力を尽くした者がはじめて語れることばなのです。祈る人になりたいものです。
あの先生にとってのゴールとは何だったのでしょうか、それはキリストでした。永遠にたどり着けないゴールです。だからこそ毎日祈りました。その祈りを教えてもらったと思います。
い 「行くのは私」
何か願いがあるとき、神様から歩み寄って来られるのが祈りだと思っていました。でも聖書を読んで、神様自身に願いがあり、私自身がその願いに歩み寄っていくことが祈りなのだとわかりました。
何故かというと、イエス自身がそうだったからです。ゲツセマネという所で十字架にかかる直前に彼は祈ります。
「神様、あなたは私に十字架にかかってほしいとおっしゃるが、とてもいやです。やめて下さい」。
しかし彼は一晩祈ることで、少しずつ神様の願う十字架の方へと自分の体質を変えていくのです。祈りとは自分が変わることなのです。
次に祈りに対する神様の声を聞き取るポイントをここ東山荘のYMCAを頭文字として紹介します。
Y 「喜ぶ」
神様はどんなに小さいことでも私たちが喜べば何でも賜るのではないでしょうか。喜んでいる人のところへたくさんのものが集まってきます。喜びというのは私たちのその日の気分で変わるものではありません。意識、決断の問題です。自分の感情に左右されないのです。喜ぶという言葉の背後には「あなたのために犠牲を払う覚悟ができています」という気持ちも含まれているので、必ずしも感情が常に良い状態であるという意味ではないのです。
M 「水の流れのごとく」
水は低い所へ流れます。聖霊の豊かな賜物もおそらくいちばん低い所へ流れていくのでしょうね。水の流れのごとく、私たちが低い所へ立った時に神様の声が聞こえてくるのかもしれません。
C 「ちやほやされない」
神様の答えって周りからちやほやされると聞こえないのです。聖書の中でイエスはこう言います。「あなたがたは褒められた時不幸だ。もう報いは受けている」。神様の声は小さいのです。周りからの騒音、特に自分を賞賛する、ちやほやする声が出てくるときには聞こえないのです。これが静まる時、聖書のことばがすっと入って来る時があります。その意味では、ちやほやされないということは恵みなのです。
A 「焦らないようにしましょう」
祈りの応えは、私たちが考えるタイムスケジュールの中で入ってくるものではないのです。問題を抱えている時にすぐに指摘してくれるそんな神様もすてきですが、ずっと一緒に迷ってくれて、最後に分かった瞬間にそばにいて大丈夫だよと言ってくれる神様がいるとしたらもっとすてきだと思います。
私はキリスト教学校で事務職員、教職員の方々に多く出会い育てられてきました。「祈る人」がいる学校の中で、共に神様の答えを受けとめて歩んで行きたいと思います。
〈日本基督教団梅ヶ丘教会牧師〉
キリスト教学校教育 2005年9月号2面