キリスト教学校教育バックナンバー
関東地区 大学部会研究集会
学校礼拝における賛美の問題
-ゴスペルをどう捉えるか-
小林 俊哉
去る十二月四日、立教大学を会場に関東地区大学部会研究集会が、十七名の参加をえて開催された。関東地区大学部会ではここ四年ほど、各大学の「キリスト教教育」の実際について研修してきたが、今回は近年多くの若者を引きつけているとされる「ゴスペル」に焦点を当てた。「学校礼拝における賛美の問題―ゴスペルをどう捉えるか―」という研究テーマについて、神木(しぼく)キリスト教会牧師の三谷和司氏を講師にお迎えした。
発題に先立つ開会礼拝では、江口再起氏(東京女子大)がヨハネによる福音書九章六節をテキストに、「神の遊び」という説教をされた。神の泥遊びをモチーフに、「人間とは神が遊びながらつくられたともいえる、神の愛着のある楽しい存在である」という大変興味深いお話であった。
開会礼拝に引き続き、三谷氏に発題をしていただいた。この研究集会に先立つ関東地区大学部会委員会の準備段階で、最近若者の間に「ゴスペル」人気が高まり、大学礼拝や教会においても旧来の枠にとらわれない賛美の形が模索されつつある、という話題提起があった。いまの学生に対して具体的にどのようにキリスト教がアプローチできるのか、という問題意識を持ちながらここ数年間の研究集会を継続してきたという経緯もあり、実際に多くの若者を引きつけているという神木教会のお話を伺うことになったわけである。
若者が教会に来ない理由について、三谷氏の分析は率直明快であった。それは「教会がつまらない」から。もちろんこれは、学校礼拝に学生を誘導するために四苦八苦しているわれわれにも耳の痛い指摘であった。「つまらない」ものをどう「面白く」するか、それが三谷氏の発想の根本にあり、ここに「ゴスペル」を礼拝に大胆に取り入れたきっかけがある。もちろんゴスペルを安易に扱うべきではなく、聖書において賛美の位置づけがしっかりとなされる、という条件が付くことは、議論の大前提として氏が強調されたことである。
本来は礼拝において若者にとって魅力的であるはずの賛美の時間も、特に文語の歌詞は理解されず、意味のわからない歌詞は心からの賛美にはつながらない。わからないままで放置すると、それはやがて礼拝の形骸化につながりかねない。これに対処するためにはまず、歌詞をわかる言葉(口語)にする必要がある、と三谷氏は考え、既存の讃美歌の場合、歌詞が難解な部分は一部修正したものを使い、さらには教会独自の賛美歌集も作成しておられる。しかし、現代人のわかる言葉の使用と同時に、知性を邪魔しない程度の音楽リズム重視との間にはむずかしいバランスがある、ということも率直にお話しされた。教会のスタッフの方による生演奏もあり、新しい賛美の音楽に実際にふれられたことも大きな意味があった。
質疑応答でも議論百出だった。文語の歌詞でも時間をかけ味わって、初めて意味がわかることの意義は軽視されるべきではない。若者にこびることにならないか。ゴスペルについて行けない人もあるだろう、などなど。三谷氏は一つ一つの質問にていねいに答えられ、確かに解決されるべき問題もないわけではないが、時代にあった新しい賛美のあり方を追求される姿勢に揺るぎは見受けられなかった。
討議に引き続いての懇親の時間も、三谷氏を囲んで良い交わりの時間となった。若者を引きつけるキリスト教教育とは何か、一つの大きな示唆が与えられた集会であった。
〈新島学園短期大学教授〉
キリスト教学校教育 2005年4月号4面