キリスト教学校教育バックナンバー
開会礼拝説教
望みの忍耐
マルコ4:30-32
永田 竹司
時代の急激な変化に直面した学校教育の問題意識から、評価すべき意識変化がなされてきています。時にこの変化が、学校にとって生徒あるいは学生は「お客様である」と誇張されて表現されるのを耳にしたこともあります。しかし、これには評価すべき視点と同時に、深刻な本質的問題が内包されていると思われます。
学校のあり方をお客様中心の市場原理に近づけ、競争に勝ち抜くために客を引きつける付加価値を模索する。収益が目的のお店であれば、店の性格や客層の変化、あるいは付加価値の有意義性の是非は、収益を上げている限り、問題ではないといえるかもしれません。
しかし、このような姿が、とりわけキリスト教主義を建学の理念とする学校教育に全身全霊で取り組むことを至上の使命としているキリスト教学校教育同盟加盟校のあり方に当てはまらないことは、誰もが承知していることです。
一方で、聖書の預言者たちも、主イエスご自身も、さらに使徒たちも、あくまでも「人々のため」、とりわけ、一部の強者のためでなく、むしろ深刻な必要に苦しむ人々のために、しかもその人々の立場に立つことに徹底しました。そして、そのためにこそ、もう一方で激しく神の意志を模索し、神の意志に服従し、神の意志を語り、神の意志に生きました。
「人々のため」とは、決して人々に迎合したり、人々の要求に翻弄されることを意味しません。ここに、預言者の苦悩も、主イエスの苦難もありました。ここから、生徒あるいは学生中心であること、またそのための学校ということは理解され、展開されなければなりません。
世界がその暗さを濃くすればするほど、かえってキリストの福音は光り輝き、その重要性は増します。キリスト教学校は以前にもまして一層必要とされているはずです。
そこで必要なことは、実りあるいは成果を待ち望む忍耐です(一テサ1:3)。これは、強靱な精神性あるいはモラルと言い換えることができるでしょう。主イエスのからし種の譬えに即して言えば、わたしたちが労苦してまく小さな種が、驚くほど豊かで大きな実を結んで成長するという神の恵みの約束に対する徹底した信頼です。学校教育に携わる者にとっての望みは、生徒や学生たちの将来の生き方と働きに他なりません。望みの忍耐をもって種を蒔くのがわたしたちの使命です。
さらに、パウロは言います。「あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか」(一コリ15:36)。ヨハ12:24の主イエスの言葉にもこうあります。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。わたしたちの労苦が、そのまま実を結ぶことにはつながらない。失敗、徒労に終わるように見える。しかし、種は、死んで初めて豊かな実を結びます。目に見える即効的な実りは本当の実りではないかもしれません。
願わくは、見えるところや時間のジレンマを越えて、豊かな実りを待ち望む信仰の忍耐をもって、建学の理念であるキリスト教の精神に対する倫理的責任、信仰のモラルの重要性に改めて思いをめぐらすことができますように。
〈国際基督教大学宗教学教授、宗務部長〉
キリスト教学校教育 2005年1月号3面