キリスト教学校教育バックナンバー
ブックレビュー:青山学院創立130周年を記念して
井上ゆり子著
力を与えませ
本田庸一夫人 貞子の生涯
伊藤 悟
じつに興味深い書物だ。かの時代に吸い込まれていくかのような不思議な感覚を覚える。貞子がいる。わが国の女子教育のため、キリスト教学校のために一心に走った貞子がいる。今年創立百三十周年を迎える青山学院にとっても、日本のプロテスタント教会史にとっても、本多庸一の働きは忘れるわけにはいかない。しかし功績を見るかぎり、妻貞子のことも今改めて我々の記憶にとどめておく必要がある。
長嶺サダ。のちの本多貞子(ていこ)。このたび井上ゆり子氏によってその生涯がまとめ上げられた。同氏のご努力には敬服するよりほかないが、我々はもっと早くに貞子に出会うべきだったかもしれない。それほどに本書は刺激的であり、キリスト教学校が自らのアイデンティティを再確認する上で、また女子教育の意義を考える上での手がかりを与えてくれる一冊である。
一八六二年に盛岡で生まれ育ったサダは、十四歳にして県下唯一の女子学校の仮教師に採用された。当時にしてみると、これは教師という職業が女子に開かれていることを世間に教えた大きな出来事であった。二年後、サダは県から選抜されて東京女子師範学校に入学。卒業後は桜井女学校(現女子学院)の教師となり、宣教師マリア・ツルー、のちに女子学院院長ならびに婦人矯風会会頭となる矢島楫子の影響を受けて受洗するに至った。その後は、岩手師範学校付属小学校、函館遺愛女学校、弘前女学校、東京英和女学校(現青山学院)で教師を務め、わが国の女子教育のために尽力した。
貞子は、一八八八年、東京英和学校(現青山学院)校主および青山美以教会牧師に着任していた本多庸一と結婚。勤めていた函館遺愛女学校を辞して東京に移り、東京英和学校構内で暮らすようになった。庸一にとってこれは二度目の結婚である。前妻は二人の子を残して急逝し、家庭的にも精神的にも信仰的にも庸一を支える女性が必要であった。二人には六人の子どもが与えられ、貞子は八人の子育てをしながらも東京英和女学校で教え、日本キリスト教婦人矯風会の活動に精力的に携わって『婦人矯風雑誌』(のちの『婦人新報』)発刊の責任を負ったりした。また婦人救助施設「慈愛館」の設立のために奔走した。公娼廃止運動などの活動はその晩年に至るまで各地で繰り広げられ、矯風会副会頭の任も一九一六年に辞職するまで実に十三年間に亘って果たしたという。
神の前にすべての者を平等とするキリスト教信仰に基づいた貞子の生き様は、現代のキリスト教学校教師や女性指導者たちに大いなる示唆と勇気を与えるものである。あの讃美歌の一節「ちからをあたへませ」の旋律が本書全体の息吹として鳴り響いていることも、付け加えておかねばならない。
〈青山学院宗教主任〉
キリスト教学校教育 2004年11月号4面