キリスト教学校教育バックナンバー
第48回事務職員夏期学校
聖日礼拝説教
共に働く マタイ20・1~16
小﨑 眞
「そやけど、何で私が強ならなあかんねんやろか?」知人の紹介により入手した絵本の中に記されている言葉である。私の心に突き刺さり、今も問いかけてくる叫びである。昨今、私たちの教育現場において、「自己点検、自己評価」という言葉の下、教育の成果、結果のみが尊重される傾向が生じてきている。いわゆる社会の期待に適った「教育力」が求められる。そこでは、目に見える実績(受験生の数、就職者の数、資格取得者の数、経理上の数等々)のみが追求され、その数字が教育の「強さ」として前面に押し出される。
このような成果、結果、効率が求められる時代に、キリスト教学校は聖書からの何を聴くのか。「ぶどう園の労働者」のストーリーを手がかりに探ってみたい。先ず、この物語に対して、多くの学生たちは「不公平だ。おかしい。ずるい。」という感想を挙げる。時給のアルバイト経験の多い学生には確かに納得のいかぬ話である。さらに、なぜ、ぶどう園の主人は五回にわたり、労働者を雇ったのであろう。必要な労働力の確保を推測し得なかった主人に対しても、疑問が残る。
物語を深化させるために、当時の労働者の現実に向き合う必要があろう。ここで語られる労働者はいわゆる小作労働者であり、日雇い労働の現実に置かれていた。私の拙い学びから察するに、「日雇い」はその日に雇われてこそ、生きていける。雇い主(主人)が存在しない場合は、ただ、その場に佇むしかない。「・・・ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』・・・」(20・6~7)と聖書が記すごとくである。労働者の生命は雇い主(主人)に依存している。故に、主人の居ない状況は、労働者にとって、絶望、虚無、ひいては、死をも意味した。主人は広場に五回も労働者を求めることを通し、彼らの生命に向き合い、彼らに生命の保障を与えたと言える。主人は労働の背後に根ざす生命を見つめていた。
内山節氏はある村民との関わりの中から、「仕事」と「稼ぎ」の違いを鋭敏に感じ取った。彼によれば、村民たちは無償で山の道を直す時などは「仕事」と表現し、同じことを、日当をもらってするときは「稼ぎ」と表現する。日々の暮らしのなかで、無理のない畑の働きは「仕事」であり、畑の収穫量、生産高の伸びを気にして営農としての労働は「稼ぎ」となる。即ち、「稼ぎ」とは現金収入のため、他人に雇われる労働であり、「仕事」とは自分たちの暮らしを作り、支える労働である。ここで強調されるべき点は「賃金の有無」、「報酬の有無」という点ではなく、むしろ、「生きること」への姿勢である。「稼ぎ」は働きの結果、獲得できる報酬を気にかけ、計算しつつ行う労働である。即ち、「稼ぎ」という発想は、より速く、より多くの報酬を獲得することを第一目的とする。故に、社会のシステムに則り、効率のみを求めることになり、人間の労働が無味乾燥の数で計られる結果となる。
これに対して、「仕事」は無理なく互いを支える労働であり、互いの関係性や共同性が中心の課題となる。そこには、報酬への計算を越えた互いの関わりの中に意味が追究される。まさに「仕事」とは「仕える事柄」である。「働く(はたらく)ことは、傍(はた)が楽(らく)になることである。」と語った人がいた。働くことの本質は他が楽になる、他への仕えであり、他の生命との関わりの創造でもある。
私たちの教育現場も「稼ぎ化」が起こってないだろうか。文部科学省の語る教育システムに則り、教育の効率、学習の効果のみを求め、私たち人間の労働が無味乾燥な数、ポイント等で計られることに無批判になっていないだろうか。「ぶどう園の労働者」のストーリーは労働の現実に注目しつつ、その労働のただ中にもう一つの新たな視点を取り入れ、生きることの意義を問いかけてくる。その眼差しは、「稼ぎ化」した労働の中に、「仕事」の意義を、ひいては、「生命」の内実を問いかけくる。この「もう一つの眼差し」の中に、生命の交わりを創造していくことが、私たちに与えられている使命であるのかもしれない。その交わりの只中に希望を確信し、互いの祈りの内に歩む者でありたい。
蛇足であるが、以下の書物を説教の中で紹介したことを付記する。
・吉村敬子『わたしいややねん』 偕成社一九八〇
・解放教育自主講座・小倉「労働の現在と教育の課題」『とうちゃんはトビ』海鳥社 一九八九
・藤井誠二『学校の先生には視えないこと』ジャパンマシニスト 一九九八
尚、藤井氏は、「異視線」という表現を用い、学校教育現場における教師集団以外の人々の働きを評価すると共に、その意義を主張している。
〈同志社女子大学生活科学部助教授〉
キリスト教学校教育 2004年9月号6面