キリスト教学校教育バックナンバー
パネルディスカッション発題
何へと、どのように「はぐくむ」のか
中川 憲次
「人をはぐくむ」の「はぐくむ」について
―はぐくむ=羽包む―
神は、目蓋(瞼)が瞳を守るように、そっと人を守り、その翼の下にはぐく(羽包)んでくださる(詩編17編8節)。我が福岡女学院(の教職員)は、生徒や学生を、そのように、そっと羽包んでいるであろうか。
「はぐくむ」現場Ⅱ
(学校礼拝における奨励をめぐって)
福岡女学院の学校礼拝の現状
・奨励者選びについて
本学では、キリスト者以外の教職員や学生にもチャペルトークをお願いすることがある。ただ、この場合、必ず宗教主事が司式を担当し、祈祷する。
・出席状況について
本学ではキリスト教学系科目の受講者に対して、その受講する学期の間に最低限二十六回チャペルに出席することを課題としている。このような措置によって、礼拝出席は試験期間を除いて常時三百名(学生総数二千数百名)を数えている。
・私語対策について
静かにさせようとするあまり管理的になることを自戒している。最大の私語対策は、聴く耳を持たない学生をしてなお傾聴せしめるような奨励がなされることだとも考えている。そこで、以下では奨励そのものについて一考したい。
「奨励」について
エマーソンの「神学部講演」における説教論に学ぶ
エマーソンは母校ハーバード大学神学部の卒業生に語った「神学部講演」において、ある説教者を批判している。その説教者の説教は、エマーソンをして「結局彼がいままで生きてきたのはむだだったのです」と慨嘆させるようなものであった。そして、エマーソンは「彼の職業の主要な秘訣、つまり生活を真理に変える術を、彼は学びとっていませんでした」とも言っている。その「主要な秘訣」とは、「思考の火をくぐりぬけた生活を、聞いている人びとに与える」ことであった。それができていない説教などというものは、「思考とは縁もゆかりもないただの騒音」だとまでエマーソンは言ってのけている。我が奨励にとっても示唆深い。
おわりに
キリスト教学校では、イエス・キリストの福音が、生徒、学生をはぐくむのである。そして、そのような福音のはぐくみの中で、教職員は自ずから母鳥が雛を羽包むように、また瞼が瞳をまもるように働くであろう。ただそれは、教員が生徒、学生を守り育てるというに留まらない。生徒、学生自身が、自分を一生涯はぐくみ成長させ続けてくださる神を学校礼拝をはじめとする学びの日々において感得せしめられることこそ、「人をはぐくむキリスト教学校」の目指すところであろう。
〈福岡女学院大学宗教主事〉
キリスト教学校教育 2004年9月号3面