キリスト教学校教育バックナンバー
聖書のことば
五十嵐 依恵
「タリタ、クミ」(マタイ5・41)
「少女よ、起きなさい」と訳されているこの言葉は、会堂司ヤイロの娘に、主イエスが言われたままのアラム語です。この言葉に関連する詩との出会いがありました。島崎光正の「再耀」という詩です。その詩は次のように結ばれています。
その光は僕らに来た/ああ 一万二千日の集積を/ためらわず 僕らに近く/僕らの影を拾い/僕らの胆汁を吸い続け/光は十字架に釘打たれ/そして 再び僕らに来た/「タリタ・クミ」/僕らの窓に 寝台に/光は夜明けと共に再び来た。
「一万二千日の集積」とは、光として来られた主イエスの三十三年の地上の日々です。主イエスは、そこでわたしたちの罪の影や苦しみを十字架において引き受けられたお方として、「起きなさい」と、今、自分にも呼びかけておられる、と詩人は受け止めたのです。先天性の二分脊椎症のため自分の足で立つ事ができず、夜が明けるのを待ち続けたその詩人に、光として来られた主イエスが、再び光を放ち、救いをもたらされ、信仰の人として立ち上がらせました。この作品を通して、復活の主イエスが示された新しい命の光が、再び読む者の心に差し込んでくる思いがします。
会堂司ヤイロは、死にそうな娘のために、社会的地位や名誉を投げ捨てて、主イエスの足もとにひれ伏し願った時、主イエスは同伴者として、彼と一緒に出かけて行かれました。途中、自宅から娘の死の知らせが届いた時にも、主イエスは彼のそばで聞いてくださり、「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と言われました。なぜ「恐れることはない」のでしょうか。主イエスにとっては、ヤイロの娘は、死んだのではなく、眠ったにすぎないからなのです。「少女よ、起きなさい」と、主イエスによって示された神の愛が少女をとらえ、さらには、生き返ってもやがて死にいたる少女にも、来たるべき復活を指し示めされました。〈タリタ・クミ〉、この主の言葉が、少女を、父ヤイロを、そして一人の詩人を、立ち上がらせたのです。わたしたちを立ち上がらせる言葉です。
〈浦和ルーテル学院小中高等学校宗教部主任〉
キリスト教学校教育 2004年6月号1面