キリスト教学校教育バックナンバー
キリスト教教育について
柿沼 敬一
「キリスト教教育」という言葉の意味のとらえかたは多様であって、その定義づけはなかなか難しい問題を含んでいます。しかし、二つの考え方に大別することができるかと思います。
一つは「キリスト教教育」を広く「教育」の視点からとらえて、それに「キリスト教」という性質が加えられる考え方。他は「キリスト教教育」を教育的方法を用いた「伝道」という視点からとらえた考え方です。
この二つの考え方が相互補完的に働けば生産的になりますが、しばしば相互に理解し合わず反発と対立を起こします。
十八、九世紀にアメリカで起こったリヴァイヴァリズム(信仰復興運動)の急激な救霊運動とG・A・コウとその系譜をひくリベラル・ウイングと呼ばれる人々との対立、抗争は、その好例でしょう。
そのような問題は、今日のわたしたちのキリスト教教育の現場にも続いています。
キリスト教学校は直接的にキリスト者を生み出す場ではありませんが、同時に、キリスト教信仰に立脚する場として学校の役員、教職員のキリスト者条項(クリスチャン・コード)を大切に守ってゆきたいと願っています。
そのことを願いながらわたし自身の奉仕の現場について記してみたいと思います。
名古屋学院は一八八七(明治二十)年七月十一日、アメリカのメソジスト・プロテスタント教会(美普教会)宣教師として来日したフレデリック・C・クライン宣教師によって、名古屋市南武平町で開設されました。
当初の校名は「名古屋英語(英和)学校」でした。クライン師は敬虔かつ熱烈な信仰者であり、「敬神愛人」(Fear God Love People)の言葉を座右の銘としておられ、これがその後の本学院の「建学の精神」になっています。
当初は、鹿鳴館に象徴化される欧風化の時で、一時期学校の歩みは順調に進みましたが、間もなく、「帝国憲法」の発布(一八八九年―明治二十二年)、「教育勅語」の発布(一八九〇年―明治二十三年)等による国粋主義化の風潮の中で苦難の道に入りました。
その後様々な試練を経験しながら創立百十七年を迎えています。
終わりにキリスト者条項に関連する現状を記します。
理事は十二名中六名(理事長・学院長・校長・牧師理事三名)がキリスト者(半数)評議員は二十五名中八名がキリスト者(約三分の一)教員は専任百名中十六名(十六パーセント)
これらのキリスト者教員で「宗教部」をつくり、礼拝、宗教行事等を担当しています。
〈名古屋学院学院長、同盟理事〉
キリスト教学校教育 2004年5月号1面