キリスト教学校教育バックナンバー
聖書のことば
重富 勝己
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
(マルコ1・41~42)
人が誰かに「手」を差し伸べるとき、その「手」にはその人の「こころ」のありさまが現される。「手」を使った言葉で、私が大好きな表現に「手を焼く」、「手が焼ける」がある。これは英語には直訳できないし、それになんと奇妙でたいそうな表現なのだろうといつも思う。
私たちはまず、自分の子供たちに対しては惜しみなく手を焼く。言うまでもなく我が子への愛、手が焼けても犠牲とは全く感じない思いの故である。しかし、悲しいかな私たちの手はそれ以上には広がりを持たないものなのである。
重い皮膚病を患い、差別の中に打ち沈んでいた人をイエスが「深く憐れんで」、そして手を伸ばされた行為は、こころ(「はらわた、内臓」を意味するギリシア語)の深みが切り裂かれるように動かされる、そんな思いから発出したものとして知られている。そしてそれは究極的には罪深き私たち人間のために、十字架の上で苦しみ抜かれたあの痛みにも通じる愛でもある。
さて、自らを振り返るとき、愛の足りなさーそれも圧倒的な足りなさーを覚えざるを得ないことを正直に告白したい。それはたとえば、キャンパスで学生たちと関わる日常生活の中で、こんなことで「手」を煩わせて欲しくないとか、こんな「手」に負えない学生に「手」をかけるなんてまっぴらごめんだという気持ちに表れて来る。できれば適当に「手」抜きして楽をしていたい、等々と。
だがこんな愛のない者のためにも手を差し伸べて、常にそして限りのない愛を分け隔てなく注ごうとしておられる御方がいるのだという事実をぜひ心に刻みたい。その愛は手を伸ばせばすぐ届くところにある。私たちもその愛に突き動かされて「手を差し伸べる」者へと変えられて行くのだ、と信じたい。
〈大阪キリスト教短大チャプレン〉
キリスト教学校教育 2003年12月号1面