キリスト教学校教育バックナンバー
第47回事務職員夏期学校
聖日礼拝説教
帰れや、我が家に ルカ15・11~32
澤野 芳久
ルカによる福音書15章には3つのたとえ話があります。話は3つですが、主題はひとつで、「失われたものを熱心に訪ね求める神」であります。「失われたもの」が主人公ではなく、「愛するものを失った神」「大切にしていたものを失った神」が主人公なのです。この3番目の「放蕩息子のたとえ」と、一般に呼ばれている話から、聖書のメッセージを学んでみましょう。
第1に、この話を通して、聖書は私たちに、「人間本来のあるべき姿は神と共にあることである」と教えています。つまり、神との正しい関係を断ち切って、神から離れて生きようとする時に、人は神以外の物の奴隷となってしまうのです。神から与えられている全ての富も才能も性格も人間関係も地位も名誉も神との正しい関係を回復するのには何の役にもたたないのです。この話の中に登場する「放蕩息子」は父親から分けてもらった全ての財産を使い果たした結果、自由を得て幸せになるどころか、貧困と飢えと恥じと屈辱の生活を余儀なくされたのです。「人間らしい生活」からはほど遠い生活を送らなければならなくなったのです。神と正しい関係にある時、私たちは詩編46編を歌った歌人と同じ思いをもって、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と、神を賛美することができるのです。
第2に、この話は、私たちに「我に返って、」心から悔い改めることが必要であると教えています。そして、悔い改めには二つの事が必要であることが示されています。一つは、神に対する大胆な信頼です。もう一つは神の前での完全な謙遜さです。この息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と、言うつもりでした。「息子の資格を放棄して雇い人としてでもいいから、父の近くに置いてもらいたい」と、告白しようと決心したのです。
第3に、この話は、この息子を迎えた父親を通して、悔い改めて神のもとに帰る者を神はどのように迎えてくださるかを教えようとしています。聖書には「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて」とあります。父親が息子の帰るのを今か今かと、毎日、待っていた姿をよく表しています。また、どのような貧しくみすぼらしい姿であっても父親は自分の息子をすぐに見分けることができることを示しています。そして。「憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻して」息子を喜んで迎える父親として描写しています。また、息子が、「雇い人の一人にしてください」と、父親に言う前に、父親はその言葉を息子に言わせないで、自分の息子として迎えることを回りの人々に宣言するかのような言葉で、僕たちに命じます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。聖書は自分のもとを離れていった人間を待つ神はどのような神であるかを、また、そのような人間が自分のもとに帰ってきた時の神の思いがどのようなものであるかをこの話は良く表現しています。
最後に、この話にはもう一人の「失われた息子」の話が付け加えられているのです。父親と、なに不自由無く、常に共に生活をしてきた兄息子です。兄息子は畑から帰ってきたとき、家の中から音楽や踊りのざわめきが聞こえてきたので不審に思いました。それが、弟の歓迎晩餐会であることが分かった時、非常に怒りました。家の中に入ろうとしませんでした。父親が出て来て兄息子をなだめましたが、素直に家の中に入ろうとしません。弟の過去を問題にし、自分の父親に対する忠誠心と比較して、弟を批判し裁いています。兄息子は自分を「義人」とし、弟を「罪人」と決め付けています。さらに、「罪人」の弟を迎え入れた父親を批判し非難しているのです。この兄息子も「父から離れている」という点では、弟息子と同じであります。違いは、兄息子は父から離れている自分の状態に気付いていないことです。この兄息子はこの世的には立派な息子です。しかし、父との根本的な関わりにおいては、彼も失われているのです。彼も「我に返って」「悔い改めること」が必要なのです。「帰れや、我が家に」と、神は今も私たちに呼び掛けているのです。
〈日本バプテスト同盟霞ヶ丘教会牧師〉
キリスト教学校教育 2003年9月号5面