キリスト教学校教育バックナンバー
夏期研究集会に参加して
厳しい社会の中にある「ほんもの」の存在意義
石橋 紀彦
今回、初めて夏期研究集会に参加させていただいて、多くの学校で抱えているキリスト教主義学校の課題が少なからず見えた。お互いの学校がともにキリスト教を伝えるという共通の目標の中で前向きな話し合いの時をもてたことに感謝している。特に、礼拝の在り方についての話については、多くの学校が苦労しながらも聖書の言葉を伝えよう、受け止めようと苦悶しながら伝えようとしている取り組みで、大きな励ましを得たように思う。
今回、話題の中で印象に残った話は、子どもたちは「ほんもの」が求めているということである。社会の価値観が変わろうが、本物の価値は変わらない。むしろ、さまざまな情報が飛び交う中にあっても、本物の存在に触れることによって、子どもたちは大きな感動を持ち、また成長していくという実践が報告された。私たちは、キリスト教という本物を持っている訳だが、それをいかにして伝えるかという意味での努力を絶やさず持たなければならない。もちろんそのためには、我々が生徒たちを取り巻く現象を分析して、そのことをどのように考え、具体的な子どもたちが持っている重荷に対してどのように関わっていくべきかを検証しながら実践しなければならない。すぐに結果が表れるものではない教育の取り組みの中で、そのことを期待の中で待つ者としての希望が話し合いの中の随所に見られたことは救いだった。
私学という意味で、私たち私立学校の抱えている状況はどこの学校も非常に難しいものがある。経営を含めた学校の存亡を賭けた生き残りと、建学の精神に支えられ成り立っている中での、ビジョンの具現化。それらをどのような形で両立できるのか。課題が山積の中で自分にはいったい何ができるのか…。今回のことを通してできた宿題は大きい。
『公立は存在することそのものに意義があるが、私立は教育の成果を出さなければ存在する意味がない』。キリスト教を伝えていくというビジョン、あるいは平和の希求という使命をもつ私たちの活動がもつ意義は、私たちの想像を超えて大きい。問題が山積している現代。だからこそ深い意味がある本物の言葉を私たちが伝えることから逸れてはいけない。
〈とわの森三愛高校教諭〉
キリスト教学校教育 2003年9月号4面