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新たな時代におけるキリスト教学校の使命と連帯-いのちの輝きと平和を求めて-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

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キリスト教学校教育バックナンバー

全体会のまとめ

「重荷」を前向きに

小林 俊哉

 1日目、2日目のさまざまな議論の場を経て、全体会共通テーマは、
(1)学校礼拝をどう活かすか
(2)「重荷」を担い合うキリスト教教育の希望とは
の二点に集約された。

 さらにこれらに付随する形で、大学・短大分団の共通テーマは、
(1)キリスト教教育の希望の可能性
(2)Accompaniment(並んで歩く)教育の具体化

 また小中高分団のそれは、
(1)学校礼拝をどのように活かすか
(2)「重荷」を担い合う関係をどうつくるか
となった。

 この共通テーマにしたがい、全体会の前半で学校現場における礼拝の問題、後半ではキリスト教学校の抱える「重荷」と「希望」の関係について自由に意見を述べ合い討議を重ねた。

 昨年の全体会でも、「これからのキリスト教学校に建学の精神(礼拝)をどう活かすか」が共通テーマの一つとなったことが想起されるが、やはり学校礼拝の持つ中核的な意義が今年度もあらためてクローズアップされることとなった。

 多くの生徒・学生にとって、キリスト教学校における礼拝との出会いがキリスト教との初めての本格的なふれあいになるわけで、その意味でもここでの「幸福な出会い」がきわめて重要な意味を持つことはいうまでもない。礼拝の場で学校がどのようなメッセージを提供しているのか、それがうまく若者達に届いているのか、その若者達は何を考え何に悩んでいるか、などについての正確な把握が必要であることを訴える発言が多かった。

 退屈なはなしには騒ぎだし「本物」には敏感に反応する生徒達の存在。自分とは何か、なぜ生きていて何を目指すべきなのか、などの根元的な問題を問うている学生。これらの若者達にとって学校は安心して自分を見つめることのできる場所となっているのであろうか。「神と共にあることで喜ぶ」という真の礼拝がおこなわれているのかどうか、学校現場が厳しく問われている。

 この様な厳しい現実の中でも、新チャペルの建築に伴い礼拝出席学生が増加したという報告があり、また在校、在学時代の礼拝の良い思い出を語る卒業生の存在が少なくないことも紹介された。

 「重荷」と「希望」の問題についても多くの議論があった。「重荷」という言葉の使用それ自体の是非はともかくとして、定員確保の難しさなどをはじめとする、キリスト教学校を取り巻く環境の厳しさは否定することのできない客観的事実として存在する。

 この中で私たちはどこに活路を見いだし、希望の教育への道筋をつけてゆけばよいのか。状況が厳しければ厳しいほど、学校の内実が問われるという問題提起が目立った。一人の苦しむ若い魂のために、教員が共に励まし合いながらその生徒・学生を支えようとすることができるのか。礼拝や教育現場で、すぐに目に見える成果が生まれなくとも、やがて芽吹きをむかえる将来を思いつつ希望を持って種をまき続けることができるのか、などいわば「手作りの教育」の必要性が訴えられた。またこれに関連して、これまで学校があまりに「聖域化」されすぎたのではないかとの指摘もあった。

 キリスト教教育を含む学校の内実を世に開示し、その評価を受ける必要性があるのではないかとの意見である。いまや「自己点検・自己評価」から「第三者評価」の時代へと変化している以上、この問題は避けては通れない。

 もちろん社会の評価のあるなしにかかわらず、キリスト教学校として伝えなければならないものもある、という意見の存在も事実である。公教育機関としてのキリスト教学校のどこを誰がどう評価するのかは、今後に残された大きな課題の一つである。

 清重会長は、キリスト教学校に対する「チャレンジ」として、「重荷」を前向きにとらえることの重要性を研究集会の3日間を通して訴え続けられた。ともすれば資格万能を叫ぶ世の風潮にもかかわらず、人格、倫理観、チームワークの力を求める企業も多いことも紹介された。

現実を厳しく見つめると同時に、不必要な悲観論は排しつつ、「教育力」で勝負するキリスト教学校が今ほど求められているときはない。

〈新島学園女子短期大学教授〉

キリスト教学校教育 2003年9月号3面