キリスト教学校教育バックナンバー
パネルディスカッション発題
共に重荷を担う ―希望への教育―
松澤 員子
私は文化人類学の視点から、与えられたテーマについて意見を述べさせていただきたい。
学校の中での学生・生徒の学力低下、活字離れ、規律違反などが問題視されてきた。数年前のこと、ある大学生が「読み始めるととまらない」ほどおもしろいからぜひ読んでほしいと三冊の漫画を手渡してくれた。その夜、早速頁を操ったが、文字が少なく叫びや単語が多く、私にはとてもつまらないホンに思えた。数日後、その学生が自分の言葉で語ってくれて、やっとそのおもしろさが理解できた。この時、私は文字文化の中で生活してきた自分を知った。漫画もただ文字を追って読んでいたのである。
私は無文字社会でのフィールドワークを思い起こした。伝統的に文字をもたない民族は 「未開人」と軽視し、そこに伝承されてきた豊かな「語りの文化」を無視するように、文字文化を生きてきた私たち教師が漫画のリテラシィ、映像の読解力、メディアを通しての対話や応答能力などを軽蔑していないだろうか。
私は学校教育の中で文字の重要性を軽視するつもりは全くない。しかし、私たちが若者たちと共に「向き合おう」とするなら、まず軽視のまなざしから解放され、彼らが身につけてきた直感力や非因果的思考、急速に進化する情報機器への対応能力などを認めなければならないと思う。
神の前に人はすべて等しく大切な人格であるというキリスト教精神を持ち出す以前に、彼らが育った社会・文化的環境と彼らが身につけた新しいリテラシィを理解しようという「異文化理解」の姿勢が教師に問われているのではないだろうか?
また、キリスト教学校には、それぞれの学校の根底を支える建学の精神があり、急速に変化する現代社会において、ゆるぎない精神的基盤をもっていることは誇りであり、希望である。しかし、その建学の精神を現代社会の教育現場で具現化するのかが問われている。
私はそれぞれの学校が建学の精神を核として、そこで展開される教育カリキュラム、さまざまな教育活動、諸行事やクラブ活動、日常的な学生・生徒の生活、教員と学生との人間関係、そうした学校生活の舞台であるキャンパス、そこに醸し出される雰囲気など、それぞれが互いに関わり合い、それらが統合された全体として創出する「学校文化」こそ大切にしてゆきたいと考えている。
それぞれの学校には固有の文化があり、私たちが日本文化を無意識のうちに習得してきたように、その学校に学ぶうちは気づかなくても、やがて卒業して社会に出て、卒業生にとってひとつの大切なアイデンティティの拠り所となるに違いない。
それぞれの伝統ある学校文化の上に、個性輝く学校文化が教職員と若者たちとの共同作業として育まれてゆくことに希望への教育を期待したい。その共同作業は若者たちと向き合い、コミュニケートし、差異を相対化することから始まるのではないだろうか。
〈神戸女学院理事長・院長〉
キリスト教学校教育 2003年9月号2面