キリスト教学校教育バックナンバー
聖書のことば
志村 真
平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。(詩編120・7)
この詩の作者は、おそらく、大変難しい時代を生きていたのでしょう。ある時代状況の中で、武力による対応を志向する人々が増えていたことが行間から読み取れるからです。そして、詩人はその信仰と思想のゆえに困難さを抱えていたと思われます。なぜなら、一節には「苦難」とあり、二節以下では戦闘的な人々が作者を苦境に陥れようとする策略の存在も示唆されているからです。しかし、詩人は暴力的な空気が充満した状況を嘆きながらも、「戦いを語る」人々を呪ったり、その滅亡を願ったりはいたしません。古代では、自分が受けた仕打ちに対する報復や敵の滅亡を、いわば露骨に祈願するような詩も見られましたが、詩編120編はそうはしないのです。
さて、この詩の次の次、122編では、「平和」を意味する3つの単語が合計6回使われています。「エルサレム」「わたしの兄弟姉妹」「わたしの友」「神の家」のために、「平和=平安=幸い」がありますように、と。
以上のように、『詩編』の中には、報復や呪いのことばを抑制し、「平和」を繰り返して強調するうたが収められています。この精神は、イエスがその活動の最初に故郷ナザレで行なった「ナザレ宣言」(ルカ4・16以下)で、豊かに結実いたします。ローマ軍による住民大虐殺の記憶が消えないナザレの町で、イエスは、復讐を祈願する一節が含まれるイザヤ書の一部を朗読するよう求められたのですが、問題の箇所は意図して読まず、その代わりに自由と解放、すなわち平和を呼びかける行を付け加えて朗読されました。
この詩は、『詩編』の全体構成の中では、「巡礼のうた群」の最初に置かれています。そのことは大変意味深いことです。つまり、わたしたちはどこから来て、どこへ巡って行くのか。それは何を目指す旅なのか、と投げかけられているからです。
〈中部学院大学短期大学部宗教主事〉
キリスト教学校教育 2003年6月号1面