キリスト教学校教育バックナンバー
現代キリスト教学校が直面する苦悩
― いわゆるクリスチャン・コードについてのアンケート集計を読んで ―
西垣 二一
特集 : クリスチャン・コードは今どうなっているか
加盟校アンケート集計
教育同盟の加盟校におけるクリスチャン・コードが、現在どのようになっているか、しばしば問われている。このたび、各学校法人のご協力によって、アンケートを次のように集計した。
急激な少子化現象によって、日本のあらゆるレベルの学校が運営の危機に直面させられている中で、私学ではその危機を乗り越えるために、建学の精神を見直すことが大切だ、と指摘されています。本同盟に所属する多くの学校は、欧米からの宣教師やキリスト者となった日本人の先達の信仰によって、生み出され掲げられている建学の精神を持っています。そしてそれを堅持して行くための方法の一つとして、キリスト者条項(クリスチャンコード)があります。しかし、世俗化現象やキリスト教会の退潮現象によって、そのキリスト者条項の厳守が、非常に困難になってきています。この問題についての明治学院における取り組みの経緯は、当時院長であられた中山弘正先生のご著書『学院の鐘はひびきて(ヨルダン社、1996年)』の中で紹介されていますが、一読して教えられるところがたくさんあります。
この問題は、現在各学校ではどのように扱われているのでしょうか? それに関するまとまった資料は同盟の事務局にもありません。
そこで今回、同盟事務局よりのアンケート調査となった次第です。今回の調査が高い関心を持って加盟校で受け入れられたことは、回答の率の高さがそれを証明しています。この集計は、今後も同盟の重要な資料の一つとなるでしょう。この資料についてのコメントを依頼されましたので、2、3の私見を述べてみます。
集計の示すところでは、クリスチャンコードがあると答えた法人は、一〇一法人中83%に及びます(表1)。学校経営の主体である法人での、キリスト教的本質維持の努力が明白に表されています。
理事会メンバーにコードが適用されている法人は95%と非常に高いですが、理事会でのキリスト者の率は66%とやや落ちます。それは、時代や経済の流れに応じて経営の判断をする必要や、社会的に活躍している卒業生を理事会に迎え入れる必要から、非キリスト者理事の参加が了解されているからでしょう。しかし理事長、院長はキリスト者と定めている法人は多いです。外部への学校の顔だからです。小学校、中学あるいは高校までは何とかキリスト者の長を置くことができても、大学では学長をコードで縛ることはだんだんと困難になってきています。副学長、学部長をコードから外す大学が増えてきています。この傾向は今後ますます増えてゆくことが予想されます。それは大学教員間ではキリスト者の率が低いからです。大学でキリスト者教員の率が30%を越えるのは僅か15校で、しかもそれらは短期大学か女子大学です。学生数2000人以上の規模の大学で3割以上のキリスト者教員を有する大学は、1校だけです。極めて少ないキリスト者教員の間から、学問研究にも教育にも、ましてや経理や学校運営にも適切な管理者を選び出すことは至難の業に等しくなっています。しかし各学校の責任ある地位の方々からの文章による回答を読みますと、多くの方々が、この点に関して苦慮しながら非常な努力を重ねておられることがよく分かります。
今回の調査の特色の一つは、「キリスト者」とは何か?と、その定義について各学校に問うていることです。一般的には、「福音主義キリスト教会の信者」とか「プロテスタント教会の会員」としている法人が多いです。しかしより厳密に、教派名を挙げて、その教派の「信仰告白をしている者」とか、「現住陪餐会員」と規定している法人も少しあります。学校の創設時代のミッションボードとの関係を固く守って、その教派の教会員に限定している法人も少数ありますが、その範疇では、理事会のメンバーを埋めることすら、無理になってきています。カトリックの学校は、修道会が経営主権を握っているものが多く、そのため女子修道会立の学校では、理事会メンバーの殆どがシスターたちで占められるケースもあり、「それはよろしくない」とカトリックの責任のある立場の方が話しておられるのを聞いたことがあります。
キリスト教信仰は個人の内面にかかわることで、それを外面からの規定で縛ることには様々な困難が伴います。キリスト者と自称していても、忠実な信仰生活や教会生活をしているか否かが問題となります。個人の信仰生活は、学校の経営面にはさして影響を与えるものではないかもしれませんが、教育面における影響は、とても大きいものがあります。教育対象の年齢が低ければ低いほど、その影響力は大きいです。この点から見ると、小学校でのキリスト者教員の率が、大学のそれに比べて高いことは、各法人で払っておられる努力の現れです。この問題は、キリスト教教育の目標とは一体何かという大前提を問い直すことへと導きます。一昔前はキリスト教学校が、直接伝道の場とみなされていました。卒業して何年も経ってから、教会の門を叩く卒業生がよくあります。今でも地方の教会では、教会員の中にキリスト教学校の出身者が多いです。かつてキリスト教学校の中で、受洗志願者が多く出て個教会では間に合わず、学校が施設を使って学校の中に○○学院教会を設立したケースが幾つもありました。現在でもそのような立場を主張する人達もおられます。しかし学校は教会ではありません。キリスト教学校といえども、私立学校として公共の教育の一端を担っており、国庫からの補助も受けているのですから。そこで実施される「キリスト教(主義)に基づく教育」の中味が問われなければなりません。広く知られているように、キリスト教学校教育同盟では、加盟の際に、キリスト者条項の有無、学校礼拝とキリスト教(又は聖書)授業実施の有無の3点について問われます。しかし、キリスト教学校はキリスト教信者を生み出すための場所でないことは明らかです。そこは教育をする場所ですから、問題はその「教育」をどう理解するかにかかっています。今まさに日本の教育界では、戦後50年間続いてきた教育基本法の改正が論議されています。私達は日本の「教育」の問題に対して、どのような発言をしていくのでしょうか?
アメリカのキリスト教教育学者であるT・グルームは、教育には本来的に宗教的な面があり、いずれの宗教においても、その宗教に特有な教育的機能を果していることを指摘しました(Christian Religious Education, 1980)。このことは世界が急速にグローバル化している流れの中では、宗教多元主義とのかかわりを問うことになります。そのような声は既に『キリスト教の絶対性を越えて』(八木誠一他著)の中に見られます。さらに神学の中からは「公共の神学」という言葉も聞かれるようになってきました。キリスト教学校が公共の教育の一端を担ってゆく限り、この方面での神学的発言にも耳を貸さなければならないでしょう。
かつてアメリカの組織学者J・ガスタフソンは、大学はモラルの指導者としての機能を放棄してしまったことを嘆きました。シカゴ大学のD・ブラウニングは、大学は消極的ながらもモラル討議の場としての役割があることを認めています。 しかし実践神学者のR・ハンターは、大学は依然として公共モラルの討議の場であることを積極的に認めています。日本におけるキリスト教学校も、そのような課題を担っていることをしっかりと自覚することから、現在私達の目前のクリスチャンコードの問題を検討すべきではないでしょうか。 即ち外側からの攻撃に対する自己保全のための規則として捉えるのではなく、思考のパラダイムを変えて、他宗教や世俗の思考と対話していくためのキリスト教アイデンティティの鼎立の根拠として取り扱うべきではないかと思っております。それにしても最も基礎となるキリスト者を生み出す基地であるキリスト教会に、もっと力を持ってもらい、指導力のある強力なキリスト者をどんどんと学校へ送り込んで欲しいものです。
〈広島女学院院長・学長〉
キリスト教学校教育 2003年3月号2面