キリスト教学校教育バックナンバー
第45回学校代表者協議会
主題 「情報化社会におけるキリスト教学校教育」
シンポジウム:発題を聞いて
佐伯 胖氏
きょうの三つの話は、ある意味で一つの話のように見えてくる。一つの話とは、まさにキリスト教の問題と重なるのだが、今日、心理学、哲学、社会学の世界で、解釈学の捉え方が揺さぶりをかけている。解釈学は、聖書の解釈学を原点にしているが、本来の解釈学は、仮説を持って世界に接すること、スタンダードに書かれているものをスタンダードに読み取るものだけではないとする。相手から見えてくるものに、向こうから語ってくるものに耳を傾け、見えてくるものを静かに待っているという姿勢で世界と関わる関わり方が解釈学であり、今、いろいろな学問で解釈学的な捉え方が大きな揺さぶりをかけている。
玉木先生の発題からeラーニングを解釈学的に受肉していくことは大きな挑戦であると思う。教育工学でeラーニングというのは、はじめに目的を設定し、後に結果を評価するという工学としての学習、システムとしての学習を考えるので、それは予め設定したものに向けての比較という発想になりがちで、解釈学的に何か学習に新しいものの発見、全く違うものを見出して変えていくシステムがどこまでできるか。学習システムの受肉といえるものをどこまで可能か。そのことは、教育工学を工学としての教育を考えるのではなく、教育することと工学的に考えるとはせめぎ合うものであるということをふまえて、教え学ぶということを考えていかなければならない。このことは非常に大事なことで、この重要性を教育工学の世界で訴えたい。
そのことを田中先生は、子どもにつき合いながら解釈学的に、何気なく見えてくる子どもに従う、教育的営みをその都度再構成する。その見えてくる子どもの潜在性というものにかける。それはかけるのであって成功するかどうかは分からない。それによって見ようとする子どもではなく、見えてくる子どもに感嘆する。
宮寺先生は、障害を持った生徒、不登校の生徒から、その生徒の持つある学びを、さりげなく語ってくれることを捉える。これも、まさに解釈学的捉え方である。生徒の言葉にならない訴えを聞いてあげる。その姿勢の中にその生徒自身の表現があり、これを受け止めていることが、相手に伝わると、相手も一層豊かに伝えてくる。
田中先生の実践も基本的には聖書を解釈することに似ている。こちらから仮説をもつのでなく、福音、まさに神の声を聞く、こちら側はあくまで聞くのである。例えば、自然とか育児書などでは一般的に出来ている眼がねを与えられている。眼がねを与えられることによって見落とすものがたくさんある。情報というものは、そういうものだと予め決められたものを聞くのではなく、自然に語っているものを、つまり言葉なっていないものに耳を傾け伝え合って行くことである。情報は神からのメッセジーとして、福音としての情報を聞き取らなければならない。自然の中で五感でものを聞き取る。自然は誰かが概念で当てはめて解釈した情報でなく生の世界にそのまま向かわせる。このような生の解釈こそ、現代にとってもっとも必要な情報である。
自然と接するということは、森がやって欲しい声を私たちが聞き取ることからはじまる。そうした会話の中で自然が作り上げられていくのである。
玉木欽也氏
きょうは、eラーニングの新しい方向性を示したい。eラーニングは教育に情報を使っているが、情報化教育でないことを話したかった。その中でいろいろな学習体系があって、佐伯先生が一番大切にしている協調学習で私たち教師もコミュニケーションをし、学生はこう考えているのだということを発見する。それを肉声でしていると聞こえない。例えば、電子掲示板という文字形態で双方向のコミュニケーションや、テレビ会議のように同期的なコミュニケーションなど、さまざまな機能がある。このように同期生コミュニケーション機能や非同期を組み合わせると学生はこう勉強するのだという発見をする。教師は一生懸命教えているが、本当に伝えたいことを学生が理解しているか分からずに教え続けている。大学には、百人、二百人の学生を対象にした一方通行の講義が多く学生は、専門、参加型で双方向でコミュニケーションをしながら教育を受けていると思っていない。教師は教えるプロにならなければならない。それは一人の教師の力ではできない。教師がチームテーィチングを組んで、ITを作ったり、学生の力を借りて授業を作る。あるいは企業人と一緒に作る。しっかりと教育工学的な視点をもち、授業設計をしていく必要がある。学生の要望を積極的に受け入れて教育方法を進化していく必要がある。
今、教えることは共に学ぶことであることをしっかり踏まえて、解釈学的なeラーニング、解釈学的な授業設計を立てていくことが大学の教師に必要ではないかと思う
宮寺良平氏
佐伯先生の講演とコメントによって、自分が夢中でやってきたことが、見えてきたように思えて喜んでいる。そしてバーチャルと現実の曖昧さが分かった。玉木先生の話を聞いて、多くの人数の学生を受け持つ大学の先生は大変だなあと思った。私の四十数人の授業の中でもフィルドバックされていない生徒の声がある。かつては一方的な授業で生徒が満足した時代もあった。しかし、時代の変化と共に、フィルドバックして向こうに返すことが求められていると感じるし、そういうことを学んでいかなければならないと感じている。
田中 司氏
佐伯先生の話の中で、「子どもは自由遊びの中で育ち、あらゆる能力が開発される」と言われたが、歩く、話すという一番重要なことを遊び感覚の中で子どもが自由に身につけて行った。「学校は目的を決めると違う方向に行く可能性がある。また教育の芽を潰す可能性がある」とも言われたが、授業でカリキュラムどおりに教えて行こうというのが強すぎると、本来教えようと思ったことは、何も子どもたち、学生たちの中に入っていない。もっと自由な方法のほうが目的を達成できるのではないか。わたしの経験から上手な対話を繰り返しているとカリキュラムなど要らないのではないかという気がする。
きょうのシンポジウムでいろいろなことが勉強できたが、解釈学のことで自分がやってきたことを違う意味で解釈すると、そういうことだったのかと気がつくことができた。
▼コーディネーター
解釈学の話ですが、わたしは学生にキリスト教を教える時、最終的には聖書が語っている声を一緒に聞くことができたら学生たちと共に歩めているのかと考えている。
フロアーから
井上良彦氏 (北陸学院理事長・学院長)
お話を聞いていて、情報に関する夥しいカタカナと外国語が出現し、これは顕著な現象で、日本語が変わりつつあるという感じがする。しかし、このことは「当然そうなのだ、自然なのだ」と受け取るか、苦々しく「仕方がない」と肯定するのか。「こんなものはいやだと」拒否するのか。そのような反応しかない。わたしは日本語が文明史的に大きな転換期にさしかかっていると思っている。「人は国土に生まれるのではなく、一つの国語の中に生まれるのだ」という言葉があるが、そういう意味で言うと、これからの日本人は多分違う日本人になるのではないかと思う。そういうことを感想として申し上げたい。
佐伯 胖氏
カタカナが多いというのは、一つは研究者の責任である。研究者がどうしても輸入的に研究してしまう。そうすると外国の言葉で考えてしまう。大事な領域の中で中心的な概念が全部外国語の論文で出来たもので、どうしてもカタカナになってしまう。あるいは外国で開発された仕方だとか、いろいろなシステム、それをいじるということで、日本の研究者は生きてきてしまうことになる。これは日本が発信地にならないとなかなか変わらない。日本発の研究がまだまだ少ないということが、その点の大きな問題である。出来る限り使わないようにしている。慣用語として使っている「コミュニティー」を「共同体」というと「同じ」という字が入ってしまう。しかし、「コミュニティー」というのは「同じ」ということを意味していない。これは日本語にならないから「コミュニティー」と言うしかない。そういう意味でなかなか難しいところがある。それから日本語と言っても漢語とやまと言葉があって、例えば、「学習」というのと「学ぶ」というのでは全然違う。「学び」というものの中に含まれているわたしたちの思いを大事にしたい。「学習」と言ってしまうと、動物もみな同じになってしまう。「学び」というと人間の人間くさい営みが残るので、そういう言葉を大事にしたい。日本語の中でも漢語というものを使うことに、わたしなりに躊躇している。言葉に対して敏感になることはとても大事なことだと思う。
片山寛氏 (西南女学院宗教主任)
佐伯先生に伺いたいが、物事を理解するとか新しい情報を自分のものにし、わたしたちの中にある言葉の枠組み、情報体系に新しいものを結び付けていく、そういう体験をする。例えば、新しいものが、全く異質であれば受け付けない。自分の知らない外国語の講演を聴いても受け付けない。どんなに意味あるものでも。新しい情報の世界の中で、田中先生がおっしゃっていたバーチャルなものが先に出てきていて、そこで新しい体験を結び付けようとしている人たちが出てきている。そういう人たちにとってバーチャルな映像にしてもらった方がよくわかると思う。子どもたちにとって、eラーニングという仕方は分かりやすくて全部がするすると入って行く。そのことは、すごいなあと感じると同時に慄然とする。そういうものが本当に良いのかという問いかけを田中先生がなさいました。人間にとって基本的体験がどういうものかという問いがそこにあったと思う。佐伯先生はどうお感じになるのか聞きたい。
佐伯 胖氏
わたしたちが世界を理解するのは、こちら側に理解する枠組みがあるからではないかという解釈、説明は、認知心理学の世界である。それは行動主義的に人が外側から知識を植え付けられるものではなくて、内側から知識を作るものだというときに使った説明の仕方である。人は自分の枠組みで世界を解釈するのであって、人が何か刺激と反応を結び付けて教え込むというものではないというときに使った。しかし、そういう考え方は批判され始められている。そういうものではなく、私たちは、枠組みそのものを絶えず外界と相互作用しながらつくり変えていく。その時のつくり方というのは、まさに言葉にならないものを外界から引き出す。世界そのものから直接的に訴えてくるものを受け止める体勢と絡んでいる。そういうものが枠組みそのものをつくり変えている。つくり変える枠組みの中で文化、社会、世界そのものが大きく関係している。わたしたちは仮想空間の世界で経験することと、本当の現実を行ったり来たりする。湾岸戦争のとき、テレビを見ていて、「これはゲームみたい」「しかしゲームではない」。本当に、人が泣き悲しむ、叫ぶ世界だったと改めて問い直す。
そういう意味では、行ったり来たりする経験を語ることが大事である。またそのことを時には話題にすることが大事である。
▼コーディネーター
山内先生のお話に付け加えることになるかも知れないが、垂直のYOUと出会う世界が新しく語り出してくれる。それは世界がギフト(神からの賜物)だと見えてきたらしめたという感じである。これが信仰の世界であるかもしれません。そういう出会い方が起こるということがキリスト教学であると思った。
シンポジュウムの印象
田中司氏
きょうは予想と全然違って、情報ということについて本当に深く考えるよいチャンスをいただけたと思っている。先程の佐伯先生の話の中に「自分と違う他人と出会ってどれだけ自分が変わっていけるか」。柳原先生の言葉では「お互いに変革し合って新しい未来を作る」。新しい未来を作るために必ず自分の変革も含まれなければいけない。きょうこの会に来て「わたし自身どれだけ変革されたかなあ。なるべく大きく変革されて新しい明日を作りたいなあ」と強く思いました。
宮寺良平氏
十代の生徒たちとつき合っているとゲームについての考え方において、大きなギャップを感じる。私たちの世代だったら、勉強好きの生徒が楽しんで本をを読んでいたような感じで一生懸命にゲームをする。数学の大好きな生徒が「早くゲームを仕上げないといけないので今日は忙しい」と言うのです。世代が違う私は「それだけ数学好きの君が何故ゲームをそこまで熱心にやるの?」と思ってしまうが、佐伯先生が言われたバーチャルと自然との微妙なバランスで生徒たちは生きているという事実を踏まえると理解できる。
教える側の方も、「ゲームばかりやっている」と否定的に思ってしまわないで、その生徒の中でゲームの仮想的な世界と現実の世界、わたしたちが持っている現実と仮想とがどのように接触しているかをよく考えておかないといけないと思った。古い世代の私たちから見ると、ゲームは単なる遊びで、しかもあまり健康的でない。しかし相当な能力を持った感性の豊かな若者がゲームを楽しんでいるという事実を見ると、そんな簡単な価値判断ではやっていけないことがわかる。しっかりとした心理学とか、哲学の目を持って、もう一度深く見直してみる。こういう時代に育ってきた生徒の中に否定しなくてはならない危険な部分もあるが、違う目で見ると彼らしか持っていない素晴らしさを見つけることも可能ではないかと思う。
玉木欣也氏
きょう勉強したことは、バーチャルとリアルを組み合わせること、情報とメディアをうまく使いこなす、ブレンディッドラーニングが重要であるということを感じた。大学の先生が対面授業とか対面コミュニケーションが非常に崇高であると思いがちだが、学習内容によって必ずしもそうではない。何故かというと学習形態は沢山あって、知識を教える、技能を教える、態度的な学習内容を教える問題解決力を養成するなど教える対象がある。学習形態として、この場合はセルフラーニングを使った方がよい、ビデオオンディマインドを使った方がよい、協調学習をした方がよいという一つ一つのきめ細かな教える内容、相手をよく考えて真剣にコミュニケーションをとる。また相手のリアルタイムのコミュニケーション、あるいは非同期でやる場合もある。そのように相手によってやる方法をよく考えて、ある時は面接して、ある時はゼミのように伝えていく。解釈しながら相手の考えていること学びたいこと教師の学びたいこと、学生の学びたいことを学生と共に生きるために学ぶ、教える、学習するということを真剣に大学自ら考えていかなければならないことをきょう勉強させていただいた。
佐伯 胖氏
きょうは本当にディスカッションが出来た。かなり深い話し合いが出来たような気がする。IT関係の学会のシンポジウムではなかなか本質に迫るに至らないが、きょうは、一歩踏み込んだ話に、それほど気張らずにすっと入れた感じがする。肩苦しさがなく大事な話にわりに自然に話し合いが出来た気がする。わたしとしては非常によい経験をさせていただいた。
キリスト教学校教育 2003年1月号5~6面