キリスト教学校教育バックナンバー
第35回中高聖書科研究集会主題講演
「キリスト教学校における宣教の課題、教会との関わり」
山北 宣久
「キリスト教学校における宣教」の課題といった場合、それは教会にとっても大きな課題として重なる。学校・教会の固有な課題はあるだろうが、「キリスト教」ということからすれば共通の取り組みがあるはずだ。それが「教会との関わり」ということになる。五つを列挙しよう。これはいずれも聖書の言葉から出てきたものである。
a.マモニズム(拝金主義)マタイ6・24
b.ヘドニズム(快楽主義)ルカ8・14
c.エゴイズム(利己主義)フィリピ3・19
d.シニシズム(冷笑主義)マタイ25・24
e.ニヒリズム(虚無主義)コヘレト1・2
今が楽しければいいという享楽志向・現在中心主義は中高生では世界一高いといわれる。しかし、これは何も中高生に限ったことではないだろう。大人がそうした志向なのだ。
そうした虚栄心・物質中心・自己中心は自力で取り除けない。これらを越えさせる神の力を提示していくことは宣教の課題として深くて重い。
中高生の拒否反応
世をあげて軽・感・冗・受を価値ありとする力は強い。軽くて感じがよく冗談めいていて受けがよい、ということだ。であるならば権威主義的・教条主義的・道徳主義的なものを拒否する。そしてこの3つを教会は持っていると中高生には見られやすい。
加えて教会は魅力がない所とされやすい。
敷居が高い 「し」しつっこい。「き」厳しい。「い」意味がない。「が」ガチガチすぎる。「た」態度がデカイ。「か」カッタルイ。「い」イマイチ。これで「敷居が高い」となるそうな。
ムダなこと。「む」難しい。「だ」ダサイ。「な」長い。「こ」言葉だけ。「と」とっつきにくい。
そんな中高生はさらに教会に来ようものなら、真面目、点数稼ぎ、体制側と仲間からいじめられかねない少数派となっている始末。
重荷を負う大切さ
中高生をめぐるアンケートによると彼らの悩み、学業成績の不振、スタイル、顔、性格、運動神経、異性のつき合いなどが七割を占めているとのこと。
実存論的悩みでないではないかという勿れ。そんな悩みでも悩みは悩みである。一体、悩みや暗さを媒介として目覚めを物質的な面で与えられることはありうる。
船の積荷、バラストの如く罪・悩み・重荷といった負に属することの中で神に出会うことがないとはいえない。
そもそも死を教えることは決定的に大切である。「常に死を想うて魂を鍛えよ」(植村正久) 孤独と死を見つめることにより、光に気がつかせられる そこに福音はある。
「主よ あなたはわたしの灯を輝かし、神よ あなたはわたしの闇を照らしてくださる。」
(詩篇18・29)
暗きにあって光を仰がせられる意味では、死の闇に代表される暗さは大切にされねばならないのではないか。
哀歌3章25―30は中高生も聞くべきみ言葉だと思う。「若い時に軛を負った人は幸いを得る。軛を負わせられたなら、黙して独り座っているがよい。」
重荷を背負うことによって、鍛えられ、自己を再発見し、人の善意に接し、ひいては神に出会わせられる。こうした方向にキリスト教教育の使命の一つはあるように思えるのだが。
自分ひとりが自分の悩みと向き合い、自己訓練を与えられることにより、人の痛みも理解できる人格とされていくことはあるように思えるし、なくてはならない。
「めいめいが自分の重荷を担うべきです。」(ガラテヤ6・5)「互いに重荷を担いなさい」(同6・2)重荷をめぐるこのバランスは大切にしたい。
大切なABCD
またまた、こじつけを語ろう。
学校における「たちつてと」は中高生の低年齢化にまで及ぶ問題性としてある。「た」タバコ。「ち」遅刻。「つ」ツッパリ。「て」転々(深夜徘徊)。「と」登校拒否。
自分が好きなことを、好きな時に、好きなようにやりたい生徒が多ければどうなるのか。
社会には無関心、勉強には無気力、出来事には無成功、人には無責任となるなら21世紀の希望は絶たれる。中高生にウルサイ、大きなお世話と言われそうだが。
こんな中で教会に来る中高生はまさに宝である。
では教会は何が出来るのだろう。
A. Assembly 魅力ある集いをすることだ。「集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブライ10・25)。
B. Borderless 魅力ある集いとは年代を超え様々な対角線を描きうることだ。異種の人々との出会い、共生。(ヨハネ10・16)
C. Care 配慮し合うこと。その賜物を多様に引き出すプログラムへと導く。役割や責任を持たせる。高齢者、病者への配慮に参与するCareは人物の養成につながる。
D. Dialogue 「塩で味付けられた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4・6)。他教会の中高生との連帯・国際間の交わり。
こうしたABCDは教会から与えうるものだ。教育は単なる情報・知識の伝達ではない。生命の伝達である。生かされて共に生きる、赦されて共に歩む時間・空間・仲間の三間を提供する教会でありたい。
「教育は人間の中にあるものを引き出すもの。宗教は人間にないものを出会いにより与えていくもの。神は存在ではなく働きで、その働きは自分をうしろから押している見えない力だ」と遠藤周作は言った。
人と人との出会いによって、人格が変えられていく、これが教育であるならば、そうしたキリスト教教育に教会は参与したい。
聖ヶ丘教会会員416名中、キリスト教主義学校出身は中高に限っても148名、33%に及んでいる。「人は前方に向かってだけでなく、後方に向かって理解する」とキエルケゴールは言った。あとで分からせられ理解させられる人は多い。福音のタネを播き続けることだ。確信と希望を持ってこの大切なつとめに専念しつづけて欲しい。
「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることはないであろう。」(箴言22・6)
〈日本基督教団聖ヶ丘教会牧師〉
キリスト教学校教育 2002年12月号2面