キリスト教学校教育バックナンバー
信じるとは キリスト教Q&A
パンか 神の言葉か
佐々木 哲夫
Q
イエス・キリストが語った「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイによる福音書4・4)」は、文語訳「人の生くるはパンのみに由るにあらず」の表現で多くの人に知られています。しかし、しばしば、人が生きるのはやはりパンであって、神の言葉は副次的なものだ、と議論される聖句でもありますが、「人はパンだけで…」の真の意味を教えて下さい。
A
悪魔の誘惑は、イエス・キリストの公生涯の始まりの時に起きました。四十日四十夜の断食を経験した直後ですから、イエス・キリストは、かなり、空腹を感じていたことでしょう。悪魔が誘惑したのは、実に、そのような時でした。悪魔とイエス・キリストの対話が成立するには、石をパンに変えるようにと誘う悪魔の言葉が真の誘惑にならねばなりません。即ち、悪魔は、イエス・キリストが石をパンに変え得る人物であると既に知っていたと推察されます。石をパンに変えることのできるイエス・キリストは、石をパンに変えずに旧約聖書の言葉「…人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる…(申命記8・3)」を引用しつつ答えたのです。
「パンだけで生きるものではない」との表現は、「パンで生きる」ことを否定してはいません。一読するだけで、パンと神の言葉の両方の必要が主張されていると理解できます。実に、私たち現世に生きる者にとって、パンは必需品です。パンとは、私たちが必要としている全てのものの代名詞ですから、私たちは、確かに、パンを必要としているのです。そのような今日的状況の中にあって、「パンだけで生きるものではない」というイエス・キリストの言葉は、いつのまにか、私たちの伝統的価値観である「衣食足りて礼節を知る」のように理解されているのではないかと思わされるのです。即ち、パンを充分に得た後において初めて、人は神の言葉によって生きることができるのだとの理解です。もしくは、パンがなければ「神の言葉で生きる」という部分は成立しないとの考え方です。
この考え方に対する修正は、イエス・キリストが引用した旧約聖書申命記八章三節の言葉の中に見出せます。申命記八章は、モーセの言葉です。イスラエルの民が、奴隷とされていたエジプトから脱出し、四十年間、荒野を放浪した出来事に関し、モーセは、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と語ったのです。即ち、マナという食べ物を与えた時だけでなく、苦しんでいた時も、パンがなくて飢えていた時も、主はイスラエルの民と共にいたのだと語っているのです。神の言葉は、実に、パンの有無を超越したレベルにおいて、人が生きるための重要な要素であると語っているのです。その申命記八章三節を、イエス・キリストは、引用しました。イエス・キリストは、人間の欲望を刺激し、派手なパフォーマンスをもって私たちに近づく方ではありません。沈黙しているように思われても、確かに、私たちの傍におり、私たちを支えてくれているのです。神の言葉によって生きるとは、私たちの真の理解者であるイエス・キリストと共に生きることです。パンを必要としない時においてもなお、人は、神の言葉を必要とする存在なのです。イエス・キリストが語った「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」の言葉をじっくり味わいたいと思います。
〈東北学院大学宗教部長・教養学部教授〉
キリスト教学校教育 2002年11月号4面