loading

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 一般社団法人キリスト教学校教育同盟

新たな時代におけるキリスト教学校の使命と連帯-いのちの輝きと平和を求めて-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

一般社団法人キリスト教学校教育同盟の概要

沿革

1899 誕生まで―宗教教育を禁じた政府の圧迫を契機に

 明治の10年代、キリスト教学校は近くのキリスト教学校同士で協力し合い日本の教育に貢献していた。しかし、1899年(明32)8月3日「文部省訓令第12号(注1)」宗教教育を禁じる法令が発令。聖書・礼拝を中心とするキリスト教学校にとっては存立をおびやかす政府の圧迫であった。

 キリスト教教育を続けることは、各種学校の取り扱いとなり、それによって上級学校への進学や徴兵猶予の特典を失うことになる。それは男子校にとってはある意味で死活の問題でもあった。しかし、各学校はさらに密接な連絡を取り合い、その特典を捨てても、キリスト教教育を守ることに徹した。

 一方その間にあって本多庸一(青山学院長)、井深梶之助(明治学院長)などが文部省に訓令の撤回や適用除外の運動をし続けた結果、1901年(明34)5月、前述の上級学校への進学・徴兵猶予等の特典を回復することができた。

【注1】 文部省訓令第12号

一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件

 一般ノ教育ヲシテ宗教外に特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ

明治32年8月3日

1910 第1回総会を開催―男子校のみで発足した「基督教教育同盟会」

 この時の各学校の協力を契機に1910年(明43)4月、男子校10数校が「基督教教育同盟会」を組織し、第1回総会を同志社で開催した。初代会長は井深梶之助(明治学院長)である。なお、最初に制定した規約の<目的>には、先の訓令第12号発令の中で学校間が協力し、国の圧迫に対し行動を共にして抵抗した姿勢が示されている(注2)。

【注2】 基督教教育同盟会規約の<目的>の項

本会ノ目的ハ基督教主義学校ニ共通ナル諸問題ヲ研究シ其ノ進歩発達ヲ計リ必要ノ場合ニハ共同ノ行動ヲ執ルニアリ

1913 女子校の結束・協力―20数校が「女子基督教教育会」を組織

 「文部省訓令第12号」は女子校にも打撃を与えた。その当時、全国にあった38校のキリスト教女子校の中で、各種学校の取り扱いを受けていたのが31校もあった。この事実は当時の学校責任者が、いかにキリスト教教育の実践に命をかけていたかを示すものである。

 そして、男子校と同じように近隣校同士で協力しあった。特に京浜地方では「京浜女子基督教教育会」が中心となり、それを全国組織に進めることを考えていた。その努力が実り、1913年(大2)10月、全国から20数校が普連土学園(東京)に集まり「女子基督教教育会」を組織した。会長にミスカンバース(捜真女学校長)を選び、その後、毎年総会を開き共通問題を協議していた。

1922 強固な組織をめざして―男子、女子の両組織が一つの同盟会に

 男子、女子の両組織は互いに交流をはかっていたが、さらに強力になるための合同については男子の積極的に対し、女子は絶えず異議を唱え反対していた。しかし、石坂正信(青山学院長)、ミスデフォレスト(神戸女学院長)等が中心となり1922年(大11)11月、両会とも同志社で総会を開き(男子は第12回、女子は第10回)ここで合同が成立した。名称は男子の「基督教教育同盟会」を継承した。会長には石川角次郎(聖学院長)がなり、加盟校数は63校であった。この新しい組織が現在の「キリスト教学校教育同盟」である。

新組織の活動―「総会」と「夏期学校」を中心に

 1922年に新組織ができたが、特に独自の事務所は設けず、会長校が事務的なことを担当した。その頃の大きな事業は、「総会」と「夏期学校」であった。ただ、総会では大学院大学の設立など新しい時代への取り組みの協議や「文部省訓令第12号」の撤廃を毎年決議し、文部省に要請をしている(注3)。

【注3】

 「訓令第12号」はその後も存続し続けていたが、1945年(昭20)10月15日「文部省訓令第8号」(注4)の発布によってようやく無効となった。この発布はマッカーサー連合国軍最高司令官の命によるものと伝えられている。

【注4】  <文部省訓令第8号>

 私立学校ニ於テハ自今明治32年文部省訓令第12号ニ拘ラズ法令ニ定メラレタル課程ノ外ニ於テ左記条項ニ依リ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ得

 
  • 1. 生徒ノ信教ノ自由ヲ妨害セザル方法ニ依ルベシ
  •  
  • 2. 特定ノ宗教教派等ノ教育ヲ施シ又ハ儀式ヲ行フ旨学則ニ明示スベシ
  •  
  • 3. 右実施ノ為生徒ノ心身ニ著シキ負担ヲ課セザル様留意スベシ

1939 第二次世界大戦時代―政府の干渉、多くの犠牲

 時代は第二次世界大戦に向けて進み、キリスト教学校はまた困難の時を迎えた。ミッションからの補助はなくなり、宣教師には帰国命令が出た。また、横文字や「英・米」の入った校名は敵国を連想するので、すべて変更を命じられた(注5)。それは当然、キリスト教教育に対しても強い干渉であり、本同盟から脱会する学校も出て、63校から52校に減少した。しかし、残った学校は軍や文部省の圧迫の中で礼拝を守り、聖書の授業を行った。戦争はますます激しくなり、多くの学校は戦禍を受けた。

 その中で最も痛ましい犠牲は、広島女学院と鎮西学院であった。1945年8月6日に原爆が落とされ、広島女学院の一切の施設が一瞬にして壊滅し、教職員18名、学生生徒児童309名が犠牲となった。ついで8月9日に長崎に原爆が落とされ、活水学院は爆心地よりややはなれていたため、被害は割に少なかったが、鎮西学院は爆心地のため一切の施設が失われ、教職員5名と生徒120名の犠牲者を出した。この他にも、キリスト教学校の戦災による被害は甚大であった。そして、1945年(昭20)敗戦を迎えた。

【注5】 校名変更をさせられた学校

変更前の校名 変更後の校名
フェリス女学院 横浜山手女学
普連土学園 聖友女学校
プール学院 聖泉高等女学校
静岡英和女学院 静陵高等女学
山梨英和学院 山梨栄和高等女学校
東洋英和女学院 東洋永和高等女学校

1947~現代 復興、新たな出発―「キリスト教学校教育同盟」が始動

 しかし、敗戦の混乱の続く中で、加盟校は復興に向かって立ち上がった。そして、1947年(昭22)「教育同盟」も内外からの要請で、独立した事務所を神田錦町の日本基督教団ビルに持ち、新しい出発を始めた。戦時中脱会した学校の復帰や新加盟校も増し、学校法人は52校から69校となった。

 その頃、教科書などが不足しキリスト教学校にふさわしい副読本の作成が教育同盟に求められたため、1948~50年(昭23~25)には困難の中で本を出版し(注6)、中高に頒布した。

 名称は1956年(昭31)「基督教学校同盟」となり、1970年(昭45)事務所も銀座の教文館から新宿区西早稲田に移った。1971年(昭46)「財団法人キリスト教学校教育同盟維持財団」の設立が認可され、名称も「キリスト教学校教育同盟」と改称、4地区協議会の設置、教育研究委員会・広報委員会の常設委員会などの組織を整備し新しい事業への取組みや、活動を開始した。

 加盟校も次第に増加し、現在(2017年)103学校法人となっている。また、2010年(平22)に100周年を迎えた。それに伴い、2000年度総会において「キリスト教学校教育同盟創立100周年記念事業」を行うことを決議し特設委員会を理事会のもとに設け、『キリスト教学校教育同盟百年史』の編纂・発行活動のための検討・史資料収集・調査を行い、『年表』は2010年11月に、『通史編』『資料編』は2012年5月に刊行された。

 2013年4月1日に、「財団法人キリスト教学校教育同盟維持財団」は「一般財団法人キリスト教学校教育同盟維持財団」に移行した。

 2014年10月15日に、キリスト教学校教育同盟(任意団体)は一般社団法人キリスト教学校教育同盟へ移行した。

 2015年6月12・13日に聖隷学園で開催された第103回定時総会において、一般社団法人キリスト教学校教育同盟と一般財団法人キリスト教学校教育同盟維持財団が合併し、新たに「一般社団法人キリスト教学校教育同盟」として出発した。

【注6】 戦後の初期に手がけた副読本

▼ 英語教科書 Culture Through English 1 2 3 (昭23)
▼ 学校聖歌集(昭24)
▼ 英語讃美歌選(昭25)
▼ キリスト教文学読本1~6 (昭25)
▼ 世界の歴史上・下(昭25)
▼ 日本の歴史上・下(昭和25)
▼ 宗教教科書
  キリスト教入門・旧約の歴史・イエスの生涯・聖書の理解・キリスト教会の歴史・キリスト教の主要思想・
  旧約の宗教・キリスト教の起源・イエスの教訓・キリスト教と文化・キリスト教の世界観・キリスト教の成立(以上、昭25)